the 雑念

葉一用。とりあえず日記

5/22 弟「You may die in my show」僕「Vシリーズなら朽ちる散る落ちるが好き」弟「握手」

【回想について】

労働、と言ってもまだ1ヶ月半くらいしか働いていないし、研修ばかりなので特にこれといった仕事もしていない。掃除の仕方とか、報告書の書き方とか、法律とか、そんなことばかりが山のように押し寄せては毎日が過ぎていくというような感じだ。いつの間にか給料が振り込まれ、いつの間にか減っていく。漠然と抱いていた大人にかなり近づいたのではないかと思う。内面ではなく、外側の話ではあるが。

高校生の時に、なんでこんなに毎日が単調なのだろうと思っていたことを思い出す。驚きもなく、可もなく不可もない、そんな毎日。大人になれば何か変わるのだろうか、とか思っていたのではないかと振り返ってみたが、そんなに能天気だったわけでもなさそうだ。漫然と紙パックに詰まったリプトンのミルクティーを啜っていただけだ。大人にも子供にもなりたくないなー、と思いながら、でもこの状態が一番嫌だなー、と思っていた。あの窒息感は何だったんだろう、と今になって思う。

その頃よく見ていた夢を思い出す。図書室の床に自分が倒れている夢だ。春のうららかな日差しが差し込んで、カーテンがパタパタと揺れているその真下で、私は床にうつ伏せに倒れている。起きようかな、と思うのだが、四肢に力が入らない。おかしいな、と思うと、自分の左胸からたっぷりと血がこぼれ落ちていることに気が付く。図書室のリノリウムの床に、じわりじわりと血溜まりが広がり、私のワイシャツと学ランはどんどんと生温く濡れていく。足や手の先が冷えてきて、ああ死ぬのかな、と思ったところで目がさめる。大体いつもこんな調子だった。

私の中の病理、と書くと大袈裟だが多少はそういうものも混じっているのだろうと思う。夢とはそういう性質のものでもあるからだ。だが、自分が死ぬ夢というのは目がさめることによる復活、あるいは再起・成長を示唆すると解釈する向きもあり、何かしらの転機や環境の変化の節目に見ることが多いという意見もある。勿論、私はこんな見解には反対だ。知識として有しているだけである。倒れている、という夢は他にも幾つか見る。自分で立つということが困難な人間であることは疑いなく、無意識も一生懸命それを意識に伝えようとしているのかもしれない。私はいつか自分で立ち上がらなければならない、と。

さて、突然こんな話をすると疲れているのか、などと思われてしまうのではないかと思う。疲れていないかと尋ねられれば、疲れてはいるのだが、別に何か特別な事情があるわけではない。そういうことをよく考えるタイプなのだが、いかんせんどこにも披露する機会が無いだけだ。人の夢の話ほど面白くないものはないからである(私は面白いと思うのだが)。