the 雑念

葉一用。とりあえず日記

11/10 幼年期と本棚の終わり

そういえばはてなブログをやっていたのだと思い出す。前回のエントリーを見て、月日は早く、残酷なものである。などと思う。

 

最近とみに本を読むようになった。捨てたいのである。
これくらい圧縮しても物事が十全に伝われば良いなと思う。というのも、これ以上言葉を埋め合わせても、互いの労力が使い果たされるだけだからである。伝達と理解の間には『光の速度に近づくほど膨大なエネルギーを必要とする』ことと近似する方程式があるに違いない。畢竟、伝達のエネルギーを増大させても完全な相互理解には至らないものだ。
何の話だったか。本の話だった。
私は本を読むのが好きだ。幼い頃からの逃避癖の賜物である。エッセイや専門書も勿論嗜むが、フィクションを読むことが大半となる。小説はいつでも私に現実からの逃げ道を用意してくれるから、必ず文庫本を2〜3冊携帯するようにしている。私はフィクションを愛している。これまでも、(そしておそらく)これからも。
ところが、本の困ったところは嵩張るところである(この一文には"ところ"が多く含まれているところがある)。1冊1センチ程度の厚みであったとしても、1000冊あれば10mになってしまう。すなわち、私と同じくらいの身長の山が6つは少なくとも積み上げられているわけだ。それを持ち続けることはコスト・運用の面で合理的でないという結論は8年前に出ている。捨てる本を選べ、ということになる。繰り返しになるが、私はフィクションを愛しているため、これらを捨てることを放擲してきた。しかしながら、実家の本棚が崩壊したという一報を受け、私はこの蔵書を少しずつ処分することになったのである。
当然、一度読み、比較的愛していないフィクションから捨てることになる(それだって大きな苦痛を伴う)。私の愛すべき賢い弟はこう言った。「文庫本の背表紙を切り落とし、PDFにすれば良いのではないか」。残念ながら私の中身のソフトウェアは電子書籍に対応していない(目がチカチカするし、何より電源がないとフィクションの世界に行けないなんてとんでもない)。この案は却下されることとなった。
そうしてふと気付かされた。「未読のフィクションについては、捨てることができない」。フィクションの出来を評価していないからだ。故に急いで最近本を読んでいる、ということになる(冒頭の文章の説明終わり)。
あと300冊強読めば手持ちの文庫本はほとんど読んだことになるため、このペースでいけば3年以内には概ね本を捨て切るることができるだろうと踏んでいる。ただしそれは、私がこれから文庫本を新たに買い足さなければ、という留保が付く。
当然、そんなことできるわけない。
私にとって本とはきっと、タバコやコーヒー、もしかしたらドラッグのように依存性の強いものなのだろう(依存性の定義について議論するつもりはない。言葉の綾というものを許容してもらわなくてはならない)。当然、古本屋に足を運べば2〜3冊は購入しているし、新刊で欲しい本だってたまにはある(主としてハヤカワ文庫になる。比較的さっさと絶版してしまうため)。手持ちの文庫本を読み終わってしまった時や旅行先で、緊急に購入することもある。私は1秒だって早く、そして長く、フィクションの世界に没入したいのだ。
弟が私のことを「書痴」と言うのもむべなるかな(しかし私はもっとその形容が似合う人物を、片手では収まりきらないほど知っている。弟のSF棚の8割は私が買ったハヤカワ文庫であることを、きっと彼は忘れているのだろう)。とにかく私は既読の本を捨てている。『深海のYrr』を捨て、『トップラン』を捨て、『六枚のとんかつ』を捨て、『姉飼』を捨て、『第四解剖室』を捨て、『バスカヴィル家の犬(新潮文庫)』を捨て、『月の影 影の海(講談社文庫)』を捨て、『家族狩り』を捨て、『狐笛の彼方』を捨て、『トップラン&ランド完』を捨てた。他にもたくさん捨てている。どのような本であっても、身を削るような思いだ(清涼院流水であってもそうだ。本当に)。
私を悩ませるのは『ブギーポップシリーズ』なんかである。新刊を追ってはいないが、まとめて読む時に既巻がないと困る、かもしれない。ライトノベルの邪悪なところである。思い切って『心霊探偵八雲』なんかは捨てた。シリーズものは管理も記憶も困難を伴うし、先達の『グイン・サーガ』を忘れてはいけない。未完と言えば『愚者と愚者』も頭によぎる。『屍者の帝国』みたいに続きを誰か書いてくれないだろうか。それとも満足いかないだろうから敢えてこのままの方が良いかもしれない。などと悶々とする。そして捨てられない本どもがまだうず高く堆積している状態にある。


本を捨てる試みはまだ始まったばかりで、遅々として進まない。そうした現実から目を背けるために、私は今日も本を読むのであった。