the 雑念

葉一用。とりあえず日記

読書感想文001:『岳』石塚真一

〇ここまでのあらすじ
本が多すぎるので捨てることになったが、いざ捨てる段になってごねたのであった。

〇弟の提案
「感想文をしたためてから本を捨てればよいのではないか」と弟は言った。喪の作業(モーニング・ワーク)である。「幸いにして貴方は文章を作成する仕事に就いていると言えるし、文章を作成する能力も平均程度あるではないか」。しかし私は基本的に良いものを見ると心的に涙を流しながら「尊い……」としか言えなくなる古のオタクなので、それは難しいのであった(例えば、チャグムが国を想って海に飛び込んだシーンについて、人は『尊い』以外の感想を抱く事が出来るのだろうか(百歩譲って『気高い』ならあるかもしれない))。

〇枠組
読了したものについてしたためる訳だから、どうしてもネタバレは含まれる。また、私の人生の延長上に読書は位置するので、どうしてその話が気に入ったのかなど、私の人生の経過と大きく相関することもあり、日記たるブログにぶん投げるのがよかろうと思う。項目・文字数なんかは自由度を大きくした方が文章を書く際に抵抗感が少ない。表題にほんのタイトルとナンバリングは付けておこうと思う。

〇今日の感想文:『岳』石塚真一(全18巻)
・経緯
漫画なんかい、という気持ちはある。分かる。私は先日から小説(それも文庫本)の話ばかりしていたのだが、漫画本も実家に400冊近くあり、文庫本と合わせて1500冊近い冊数になってしまっているのでこちらの処分も急務なのである。そうした事情は置いといて、私の友人が長野県松本市で働いているのだが、『岳』の舞台も長野県松本市(を含む北アルプスの山々)なので、転勤の際に折角だから読むのが良いのでは、と推薦した経緯がある。先日2年ぶりに友人と話す機会があり、「まだ読んでいない」と言うので一頻り叱責し、年末に貸し与える約束をしたところだ。廃棄チャンスが巡ってきたことに乗じて改めて読み返し、感想文の練習台に仕立て上げようとしている訳である。

・あらすじ
思いの丈を自由にしたためるにしても、あらすじくらいは付けなくてはいけないのではないかと思う。基本的には、北アルプスで救助ボランティアをしている島崎三歩という山男が遭難者を助けまくる話だ。1~2話完結なのでこの要点さえ押さえていれば終盤でなければどこから読んでも困ることはあんまりない。三歩はものすごく明るい人柄で山でのトラブルを難なくこなしていく役なので、初読の際はその超人ぶりに若干辟易したものだ。大学時代に先輩に勧められたのがきっかけだったのだが、「こういうものを面白いと思うようになると、感性がおじさんになったということなのだろうな」と思った覚えがある。今もまあ、そこまで強くは思わないが、「ほらどうだ!これが決め台詞だぜ!!」みたいなものはやっぱり目に付くとも言える。

・みどころ
書いて改めて気付き始めたが、私は何かを手放しで褒める、ということができない性質のようだ(さもなくば『尊い……』になる。勿論、『岳』も尊い部類の物語だ。念のため)。仕方ない。こうして褒めるポイントを項目立てて紹介する必要がありそうである。私が取り上げたいのは『岳』のフィクション性が三歩のパーソナリティとスペックにのみ集中している点である。要するに、三歩以外はみんな普通の人だし、山で生じる事故もありふれたものなのだ。だから、三歩がいかに優れていても、事故者が死ぬときは死ぬし、救いのない話も(数自体は少ないが)ある。だから、読後感としては僕の中では『ブラックジャック』とかに近い。三歩が根明なのでさほど陰鬱な気持ちにはならないが、その分、「三歩が動揺した時」については読者もかなり心的に揺さぶられることが多いのではないだろうか。そうした緩急や展開については(多少無理はある時はあるものの)、特筆に値すると思う。また、一番しんどい仕事をしている三歩が大体笑って何でも許してくれるので、うっかり読んでいる私も許された気持ちになる。ささやかだが重要で、この物語全体の魅力である。

・印象的なシーン
終盤の物語開始の合図となった『はじまり』。レギュラー扱いのキャラクターが落石に巻き込まれるシーンだったのだが、とにかく絵を見て寒さや暗さ、恐怖が伝わる話で、そうした感覚に訴えかける漫画は稀有である。また、三歩が狼狽する場面で絶望感はひとしおなのだ。私は自分が思ったよりも三歩に依存していたのだなあとそこで気付いた。読者が無意識の内に期待しているということは、物語に上手く没入している証左である。そうして、やはり『岳』が優れた物語であることを再認識させられた次第だ。

・最終回近辺について
『岳』は最終回周りで賛否の別れた作品である。簡単に説明すると、『三歩は山岳救助のボランティアを辞め、再び登山家としてエベレスト(の隣の山)にアプローチを始めた。その後、エベレストにて遭難したグループの救助に当たり、かなり無理な行程を自ら歩んだことで、消息不明になってしまう』というものである。このようなタイプの話が終わるには順当であると言わざるを得ないが、「十中八九死んだのだろうけどもしかしたらどこかで……」という余韻も残しており、様式美がある。私は当時「ええー、三歩やっぱり死んじゃったのか」とちょっとしょんぼりしたのだが、ちょっとしょんぼりで済まなかった人々からは最終回に低評価(例えば、「三歩の行動はこれまでと矛盾している」「最終話辺りで話を畳むのに急ぎ過ぎた」などの評価)が与えられているようである(個人的には、話を畳むのに急ぎ過ぎたのはあるだろうと思う)。先日読み返したところ、(折角だから『岳』の肩を持つとという留保付きで)、私は『岳』の中で登山者が死んでしまっても、やはりどこか他人事だったのだろうなと思ったわけである。フィクションだし(それがフィクションの良いところである)、1~2話の付き合いではさほど情動は動かない。ただし、全編通して関与した三歩は既に私の中で他人ではないくらいには関係が築かれているのだろう。最終回は特別だし、残念に思う気持ちは強い。ただ、出来事だけを取り上げれば、『岳』の中で描かれ続けてきたエピソードと変わりは無いのだ。要するに、「三歩が死んでしまうことも、十分物語の枠内で生じ得ると何度も説明されてきた状態」であるにも拘わらず、私のような読者には最終回だけがひどく理不尽に見えるのである。現実であれば、それはきっとこの比ではないが、現実ではそうしたことが容易に起こる。メタフィクションとして、なんて言い方は『岳』には最もそぐわない言い回しであるが、大事な人、親しい友人や頼りにしている人物を喪失するという経験として、白眉である。

〇感想文の感想
意外と時間が掛かるし、あんまり魅力的に書けないのは忸怩たる思いだ(しかし嘘を書く訳にもいかないので悩ましい)。三歩を「イイヤツ」と認識するかどうかがきっと物語を楽しめる分水嶺になるんだろうな、と思う(こうして枠外に本質を垂れ流すから性質が悪い)。私はツンデレなのだ、と大昔に後輩から指摘されたことがあるのを思い出した(私は現在でもそれを認めない)。