the 雑念

葉一用。とりあえず日記

2/10 先輩がスティック糊取り間違えてリップクリーム茶封筒に塗りつけてるの見て自分はあと10年くらいはクビって言われないだろうなと思った

○美術館について

仕事が閑散期となり、休日に暇を持て余すことが多くなった。とはいえ、業務の性質上長期の休暇を取るわけにもいかず、遠方へ旅行に行けるわけでもないので引きこもりが加速する日々である。近場で時間の潰せそうなところを調べていると、転勤して2年目、ようやく勤務地がいわゆる観光地であることに思い至った。しかしながら、見るべきものは多いが、どうにも関心をそそられない。寺社仏閣に興味がなければ、戦国武将にも興味がない。温泉にも心惹かれない方であるし、強いて言えば食事だが、それこそ遠出をしなくても地元の美味しいものはスーパーに並んでいる。残念ながら、旅先でもホテルに引きこもっている人間であるため、この引きこもりはもっと根の深いものであったようだと観念したところだ。

そんな話を職場の先輩にしていると、先輩曰く「それならば、あそこの美術館に行くと良い」と言う。私は生来、美術館というものに本当に縁がない。いずれにせよ、心揺さぶられないのである。と言うと世の中の大半の人は別に感動したくて美術館に赴くわけではないらしい。先輩の説明するところによると、美術館で何がしかを鑑賞している人の大半は暇潰しであり、呼吸のみを目的としているようである。私が「本当か」と重ねて尋ねると、先輩は「本当だ」と得心して応える。それならば、と思い腰を上げて近場の(とはいえ、自転車で1時間ほど)の美術館に行くことになった。

その美術館は、私でも名前と絵が一つくらいは思い浮かぶような、海外の有名画家の作品が常設されていることが売りであると言う(先輩はそのようなことは一言も言っていなかった)。油絵である。と言っても、私は世の中の有名な画家はみんな油絵を描いているのだろうと思っていたので、油絵以外の絵がどんなものかはわからない。強いて挙げるならば、水彩画と版画は多分わかる。あとはPhotoshopとかSAIになるのだろうか。ここら辺からは全くわからない。

立派な額縁に収まり、一番良いところと思しきところに飾られている絵が、有名なことはかろうじて判別できた。名前も知っていた。思ったより小さいな、という感想以外の感想が出てくるのではないかと思って15秒ほど絵を眺めた。何も出てこなかった。それどころか、『田舎の絵ばかり描いている人だなあ』と思った。メタ認知が残念すぎる、という別の感想を抱きながら、私は他の絵を眺めていく。他の画家の作品も並べられ、どれもこれも羊や森、畑の絵なので、きっと田舎の絵を描く人々展なんだろうと思ったらちゃんといかめしい名前が(忘れたが「~派」のようなもの)付いていた。主題は当たっていたようなので多少満足したが、それだけだった。

昔から芸術と呼ばれる分野のものに滅法弱かったことを思い出し、ベンチに座って途方に暮れた。美術館に縁がないとは書いたものの、自分の琴線に直撃するものが何かあるのではないかという期待が常にあり、誰にも見咎められないように美術鑑賞へ出掛けたことは何度かある。いずれも望みは叶わなかった。きっと先輩の言うとおり、そのようなことはまず生じないのだろうと思う。私の未知への期待が大きすぎるだけなのだ。そう気を取り直し、日本人画家のコーナーもあるというので(そして入館料がもったいなかったので)、そちらへ足を向ける。後半戦は前衛芸術のようなもの、となってくる。そうなると本当にひどい。『丸い』『でかい』『重そう』みたいな感想が、一瞬の『無』を経由して引きずり出されてくる。この感想が自然ではなく不自然から生じている点に、やはりどこか無理があるのだろうと確信する。絵を見ても何も感じられないというのは私の中では本当かもしれない。まあそれは、仏像でも、立派な建物でも、イルミネーションでも同じで、「見る」ということからなかなか情動が引き出されることはない。勝手に逆共感覚と名付けたい。

では逆に、美術鑑賞を実施した日に美味しいものを食べるなどの報酬を与えることで、美術鑑賞を快刺激として定着できないだろうか、などとコーヒーを飲みながら考える。美術鑑賞の本質ではないけれど、茶道でもなんでも最初はまず型から入ると言うではないか。そのうち、食欲と対連合された快刺激の中から美術本質への快刺激に至ることもあるかもしれない(自覚を伴う弁別には困難を伴うだろうが)。我ながら良いアイデアと思ったが、そもそも型が歪みきっているのでダメだろうなと思い直した。人間的欠損をまた大きくするところだった。危ない危ない。

 


○減量について

健康診断で太り気味の指摘を受け、嫌々ながら減量を始めたわけである。太り気味、というのは一体どういう基準なのかわからないが、身長に比して体重が重い、以上のことではないと医者は言う。すなわち、脂質や腹囲といったものは正常の範囲内であるからして、メタボ等には当てはまらないとのことだそうである。

「つまり、どうすればいいんでしょうか」

「これ以上太らない、あるいは正常範囲の中央付近により寄せるよう努力すると将来ももっと生きやすいということだ」

サービスで体脂肪率と骨格筋率を測定してくれるというので測ってみると、体脂肪率は20%前後、骨格筋率は36%前後であると言う。医師曰く「標準なんだけれども、体重を考慮した結果骨太と言える」そうである。

なんだかわかったようなわからなかったような結果だったが、確かに体重が増えてはいるので少なくとも現状維持はしようと思い、それならば減量に舵をとった方が現状維持に最低限至るだろうと考え、減量(仮)が始まった次第である。ややこしい。

自宅に体組成計を常備したことで、学生時代よりも太ましくなっていることが数値で示され、まず憤り、次にどうにかこれが嘘の数値ではないかと疑い、嘆き、最後には現実を受容することができた。キューブラー・ロスの唱えた死の受容と全く同じプロセスである。障害受容等にも応用されることがあり、汎用性の高い仮説であることが再認識された。

それはそうと、結果として全然痩せてない。横ばいである。現状維持である。故に目標は達成できている。総合して許されざることである。

しかしながら、こうして3年かけて蓄積した脂肪やらなんやらを半月程度で清算できると思っているならば考えが甘すぎるのではなかろうか(お前の話だよ)。そう思いつつ、言い聞かせつつ、ある朝突然痩せねえかな、と思いながら眠りにつく、そんな毎日である。