the 雑念

葉一用。とりあえず日記

5/1 きっと何者にもなれないお前たちに告げる

【私と弟について】
改元したらしい。伝聞調なのは実際に目で見て確かめていないからである。何となく正月のような雰囲気があり、スーパーの総菜売り場なんかも賑やかであった。
そういえば、年末年始に父親が家に居たことがなかったなと思い出す。父親もまたスーパーの店員で、世間一般が休みの時に働くサービス業の権化のような職業なため、私達兄弟は大型連休にどこか出掛けた記憶が無い。母親も人ごみが苦手な性質だったので、家でごろごろとしていることが多かった。先日帰省した際に、父親はそのことを後悔していると言っていた。「もっと遊びに行けばよかったと思ったけど、もう二人とも大人で、仕事や勉強があって、一緒に遊びに行くようなところも思い付かなくなっちゃったな」。悔恨とは都合の良い言葉だ。人から赦しを得られたような気分になるのだろう。
私は良く日に焼けた同級生たちを思い出す。「よういちは夏休みどこに行ったの?」。どこにも行かなかったとは言えず、祖母のいる田舎に行ったと応える。嘘ではなかった。ただ、自転車の圏内に祖母宅はあるのだが。そういう思い出はおそらくずっと心に残るんだろう。だからといって愛されていないとか、恵まれていないということはなかったし、そう感じなかった。ただ、活動性の低い人間たちはこうなんだと思っただけだ。もしかしたら、少しだけ僻みっぽい性格になってしまったことには寄与したかもしれない。
一方、弟は家の中でじっと収まっているような逸材ではなかった。夏も冬も家を飛び出し、友達と日暮れまで遊び、得体の知れない生き物や得体の知れない棒切れなんかを持って帰ってきた。私はそれをいつも少しだけ羨ましく思っている。私は魅力的じゃないし、周囲に遊んでくれるような友達もいない。いいなあ、と思って見ていた。それでも、まあ、弟には弟なりの悩みなんかはあったのだろう。他者とトラブルを起こすのはいつも弟だった。中学生になっても泣きながら家に帰ってくることさえあった。これは別に父親の所為ではないが(こういう一文を入れて客観性を担保したい。無論、文章の展開から無理だということは承知している。ごめんね父)、私は歪みを持って早熟し、弟はいつまでも純粋で傲慢なままだった。良くも悪くも、私達は相似形でいて、相補性や互換性のないまま大人になった。時代の節目に、そんなことを思い出す。

【回想について】
本当は昨日の内にこれをしておけば良かったのだが、今日思い出したのだから仕方がない。祝意に満ち溢れた日にこんな内容の文章をしたためるのは気が重たい。本当だ。まあ、気持ちの整理とかこれまでの人生のセーブポイントみたいなものだと思って割り切ろうと思う。私(ときには私と弟)が平成に置き去りにしたかったもやもやを書くことにする。実際に体験したことについてのもやもやなので、正解とか、解釈のようなものはない。やまなし・おちなし・いみなし、というやつだ。

・A君の話
私が中学校3年生の時の話だ。A君という車椅子の男の子と同じクラスになった。A君の障害の程度については分からない。教えられなかったからだ。両脚は完全に不自由で、指先もかなり硬直しており、もしかしたら知能にも軽い遅れがあったかもしれない。A君の両親が「勉強などは普通にできるので」という理由で、私達と同じ小学校を出て、同じ中学校に通うことになったようである。
A君は明るい性格だった。ただ、私達は彼のようないわゆる障害者とどのくらい密に関わるのが適切で、どのくらい立ち入ると無作法になるのか分からなかった。だから、級内への導入は円滑とは言い難かった。補助員の存在も、大人に対する一定の抵抗感が生じ始める季節として良くないタイミングだったと思う。よく言えば「不快感の生じない距離感で」、悪く言えば「腫れ物に触るような」彼との学校生活が始まった。
私は出席番号がたまたま近く、彼の介助に当たることが多かった。必然、会話をすることが多くなる。A君は良いヤツだった。電車に乗るのが好きで、将来は車掌になりたいと言っていた。私は、もう少し彼の手が自由に動くことが出来れば可能かもしれないと思ったが、それを判断する立場にないので「そっかあ」みたいな返事をしていたように思う。「よういち君は何になりたいの?」と訊かれたことを覚えている。その時は「大人」と答えたように思う。
部活を引退した後は、A君と放課後を戯れて過ごすことが多くなった。A君は母親が迎えに来るまで下校が出来ない。一人では通学が困難なのだ。その時間を同級生と潰すことは、中学生らしいことだと思った。私は半分くらいは義務感で、もう半分くらいは友人としてA君と放課後を過ごしていた。トランプをして、オセロをして、将棋をして、こっそり漫画を持ち込んで、遊んでいた。私だけでなく、他のクラスの友人も遊びに来た。そういう緩い輪を作るような明るさが、A君にはあった。1時間から2時間すると、母親が大きな車で迎えに来る。若くて、綺麗な人だった。「いつもありがとうね」、と私達に必ず声を掛けてくれた。私は、そしてA君も、このような日々に満足していたのではないかと思う。多分。

A君に変調があったのは2学期の初めからだった。

夏休みの話をしようとなった。私は相変わらず「祖母宅に行った」と繰り返して伝えていた(それでこの話を思い出した)。
A君は、もう忘れたが鉄道のイベントに行く予定だと話していたのを思い出す。私が話題を振ると、A君は戸惑いの表情を見せ「行けなかったんだよ」と答えた。どうして、あんなに楽しみにしてたのに。実際、彼からその話を5~6回は聴いたように思う。私は彼の体調が心配になった。でも、それ以上の言及はなく、その日は終わってしまった。いま考えれば、それが予兆とも言えなくもなかった。
それからA君は口数が段々と少なくなっていった。端的に言えば元気がない。そして、そういう自分を鼓舞して明るく振る舞う場面が目立つようになった。私は、今日は聴こう、今日は聴こう、と思ってそれをついつい先延ばしにしていた。思い過ごしではないかと思ったこともあるし、何故自分がわざわざ聴かなくてはならないのか。お節介じゃないのかと思うこともあった。結局のところ、私はきっと迷うフリをしてA君の悩みとか、それらしきものに触れるのが億劫だったのだろうと思う。そうこうしている間に、A君は学校を休みがちになり、10月の後半からはほとんど学校に来なくなってしまった。私も高校受験を控えていたので、放課後に学校に残ることもなくなり、少しずつ、少しずつA君と作ってきた慣習がなくなっていった。トランプはロッカーに仕舞い、オセロは家に持ち帰り、将棋は先生に返し、漫画はこっそり他の友達にあげた。

春になって、高校が合格した次の日に私の母親から、A君の話を聞いた。
夏休みの間に、A君の母親は実家に帰ってしまったらしい。当時はそう聞いたが、本当はほとんど錯乱した後の失踪だったそうだ。A君の介護疲れとか、A君の父親家からのプレッシャーとか、まあ、そんな色々があったらしい。伝聞調なのは実際に目で見て確かめていないからである。とにかく、A君の母親はいなくなり、A君はそれをきっと自分の所為だと感じていたのだろう。そこまでは、きっと確かなことなのだ。父親はA君の介護をほとんど母親に任せていたので、通学させることはおろか普通の生活もままならなかったようである。その状況の全てがA君の尊厳を踏みにじっていたのだろうな、と思う。いつも私は思うだけで、何かを行動に移せない。
卒業式の前日に、A君は父親に連れられて登校した。父親の疲労は明らかで、何もかもが大変、といった顔をしていた。母親の話は本当なんだろうと確信した。放課後にはトランプをした。ロッカーの奥底から取り出して、以前の仲間も呼んで、賑やかにやろうと思った。A君は養護学校に通うことになったと言った。欠席している間も、通っていたのだろうと思った。「それが一番誰にも迷惑掛けないから」と付け加えた。
結局それがA君を見た最後になった。卒業式には来なかったのだ。理由は分からない。私は泣きたかったが、泣かなかった。相応しくないような気がした。いまもどこかで元気にやっているといいな、と思う。
実は、こういう話はありきたりなのだと思う。だが傍観者として体験したそれは私にとって手に余り、今でも強い憤りを残している。それは剥奪に関するエピソードとして記憶されている。本当はA君と私は中学3年生を一緒に過ごすことが出来たのに、ということだ。これはおそらく妄想なのだろう。それでも、今でも捨てられないでいる。

・弟の話
最初は弟の、1個年上の先輩だった。就職後すぐに自宅で首を吊って死んでしまった。
私も顔は知っている程度の付き合いがあったが、弟はかなり親しくしていたようである。彼が最後に連絡を取り合っていたということで、弟は警察から任意で事情聴取を受けることになった。帰ってきたとき、弟の顔は白くなり、手が震えていた。弟が見て欲しいというので、メールの履歴を見た。他愛のない、何でもない普通のやり取りだった。
『それじゃあ、明日も実験がありますのでお先に失礼します。おやすみなさい』
それが弟の最後の送信となっている。弟はこれをかなり気にしていたが、どう考えても普通のやり取りではないのかと応えた。納得はしていなかったが、警察の聴取を終えたあとでもあり、ナーバスになっているのだろうと思っていた。実際、この件についてはそうだったと確信している。

その一年後、今度は弟の同窓生が死んだ。やはり自死だった。詳細は伏すが遺書もあり、計画的な死だったようである。

既に私は社会人になっていたので、弟の電話でそれを知った。弟は相当参っているようだった。弟は話すときに「また」という言葉を使った。遺書の中に弟のことを指すような描写があったそうである。要旨としては、弟のように頑張れず、優秀でもない自分に嫌気が差した、というような内容だったらしい。やはり警察に赴き、事情聴取を受けた。
実家に帰り、弟と話をすることにした。弟は訥々と、これまでの経緯を話す。友人だと思っていたこと、研究と金銭について悩んでいたこと、一緒に色々な手伝いをしたこと、それらが回り回って、友人を追い詰めていたこと。そんな内容だ。今回はほとんど名指しされていることもあり、弟の落ち込みもひどく、食事も喉を通らないと言う。
正直に言うと、こいつツイてないなと思った。
だが、弟にすれば自死が出来事のインパクトとして大きいだけで、これまでも弟の振る舞いや能力に対して嫉妬や何やらを向けられてきたのだろうと思い直した。これは彼にとって大事なテーマなのかもしれない。即ち、「俺は他人が死を選ぶほど受け入れられないような人間なのだろうか」というバカげているけれども深刻な問い掛けなのである。贔屓目はあるにしろ、私の弟はそれなりに優秀である。勉学に関しての話である。研究論文も数本ある、なんてことを言っても仕方がないと言えば仕方がないのだが。私が彼を評価しているのは、好きなことや興味を持ったことに対して真摯に、それでいて継続的に努力を積むことができる点だ。それは、得難い特性であるだけに、時には他人の劣等感を刺激するのだろうと思う。
そう言われれば、弟は昔から周りから煙たがられるようなところがあったと思い出す。何てことは無い、典型的な委員長タイプなところがあるのだ。自分が出来ることであれば、誰でも同じように出来ると思っている節があるし、正論を突き付けることも致し方ないといった行動が他者の神経を逆撫でするのだ。最近は大分丸くなってきた方ではあると思うが、出来ることが膨大な人間は確かに他者を巻き込んで破滅させることもあるだろう。弟はそれに間違いなく当てはまる。真面目なヤツなのだ。どこまで行っても。
人は誰かと同じように努力できない時、色々な言い訳や逃走をするべきだと思う。自他を守る為に。それが互助的にできないとき、コミュニケーションは破綻するのだろう。
かと言って、弟が同窓生を追い詰めたと私は考えていない。自死の要素は常に複合的だし、衝動性も無視できない要因である。信念を持って既遂することもある。自死はその人自身のものであって、誰か一人が担うには重く、傲慢なことなのだ。私は最終的に弟に甘い。それは身内だけの特権だ。
休学の話も出たが、結局は継続して研究を続けている。弟は私に比べてタフではないので、ふとした時に泣き出してしまうことがまだあるらしい。だからこの文章は、弟の目に触れないところで私から送る見解の一つである。誤解を恐れずに記すならエールだ。

【悔恨について】
後悔先に立たず、と言うが、これからもたくさん後悔をしていくのだろうという予感がある。私も。弟も。願わくば、その悔恨が父親のように、取り返しの付くことであってほしいと祈る。そんな新しい日々である。