the 雑念

葉一用。とりあえず日記

5/19 僕「今日何日?」同期氏「19日」僕「素数だ」同期氏「もうやだなんなのこわい」

【勉強について】

勉強が嫌いな人間であるがそれ以上に負けず嫌いな人間でもあるので、いよいよ困難なテストを控えた前日こうして少し夜更かしをして課題に当たっている訳である。一夜漬けという勉強法は平たく言えば全習法に当たる訳で、分習方より短時間で効率よく記憶を維持できる方法である、と思う(しかしながら長期的な観点から分習法の方が長く事柄を把持できるというメリットもある)。刹那的な生き方なので、これで良いのである。学習効率と記憶曲線には実は何も関係がないのではないか、という疑問もあろうが、ここで詳しく話し出せば夜が明けてしまうのは確実なのでここらへんで寝るのである。エビングハウスが凡人で良かった、という心理学徒御用達のジョークを置いておく。

5/18 先輩「研修は五体満足で帰ってきてくれれば文句なしだから」僕「わっかりました」同期氏「もう既に心がやばいです」先輩「薬キメろ」

【飲酒について】

前日に引き続き、今日も飲み会である。毎日毎日飲み会である。すごい。体力が保たない。たっぷり寝てたっぷりぼんやりすることでパフォーマンスを維持している。風邪や偏頭痛、下痢といった諸症状が研修員の中で横行し始めているが誰も気にしない。端的に言ってやばい状況である。デスマーチ感が半端ではない。重ねてテストがある。赤点が大量に出る。補講者をさておいて飲む。この繰り返し。1週間正気でいられず、今日が何曜日なのか分からない者さえ出現する。一種の極限状況であり、ヤスパースも膝をがっくり落とすことだろうが、週の真ん中水曜日はこんな感じである。早く休みが来い。

5/17 眠すぎて顔面にiPhoneを落とす刑に処せられている

【飲酒について】

ささやかなパーティー的なものが催されたのだが、パーティー嫌いの私としては苦難の連続である。何故週の半ばに開催するのか小一時間問い詰めたいところだが、とにかく飲酒量が大変なので現在も酔っている状態でこれを記している。眠たい。明日も普通に研修が続くと考えると暗澹たる気持ちになるが、なんとか無難に乗り切りたいところである。もう眠いので今日はこの辺でおしまい。

5/16 僕「今日も草刈りから1日が始まる」同期氏「とてもつらい」僕「毎日毟られても生き生きと育つ草に何かしらの含蓄を見出しそうになる」同期氏「考えない葦になりたい」僕「そんなんただの葦じゃんもう」

【給与について】

お給料が出たのである。明細を貰って初めて気がついた。カードの引き落としと時間差があるので、なかなかお金持ちになったような錯覚に陥るが、この調子で浪費すると月末に泣きを見るのは明らかなので慎重を期すこととする。椅子も買ったことだし。エアコンも買うことになるし。エアコン、TV、冷蔵庫を揃える旅に出かけなければならないのである。3つ買うから割り引いてくれ、とか言ってみようかと思う。

【課題について】

基本的に私は平日勉強をする習慣がない。平日は業務や研修課題が日中みっちりと詰まっており、その後の数時間をまさか勉強なぞに充てるとは思いも寄らないという訳である。しかしながらテストも近い。今度は平日のなんでもない日に行われることになった。ノー勉で挑む、というのは高校以来の暴挙であるが、賃金やボーナスに影響が出ることを鑑みると、なるだけ普通の点数に収めたいところだ。仕方がないからパラパラとテキストやプリントを眺める。このようなアプローチで記憶が出来るなら良かったのだが、生憎私は「興味がないけれども覚えたいことは写経しなければ覚えられない」というオールドタイプの人間なので、裏紙やらルーズリーフやらに本文を写経することから勉強が始まるのである。ちなみに興味があることはもう少し簡単に覚えられるが、それはおそらく誰でもそうなのだろうと思う。こうして人間の個人的な興味関心が特定の記憶の定着率に優劣を付ける、という仮説はなかなか面白いのではないかと思う(でもエピソード記憶とかで誰かやってそう)。写経すれば短い期間ではあるが、かなりの記憶成績は良くなることが私個人の場合概ね立証されている。1.5hで1テストの勉強を抑えたいのだが、同期氏は既に20hをこれに費やしているらしいのでこのことは極秘である。

5/15 母「自転車使っていいけど使ったら空気入れといてね」僕「使わない」母「じゃあ使わなくていいから空気入れといて」僕「なぜなのか」

【予定について】

休日は布団の中で予定を立てる。大概それは上手くいかないものなのだが、便宜上1日を生きる上でのモラルの最低ラインを割らないよう計画を立てるのである。

今日は残念ながら上手くいかない1日だった。洗濯物は乾かず、クリーニングの受け取りに遅れ、電車を逃し、社宅に忘れ物をするという感じだ。結果、予定の半分もミッションをこなせず貴重な休日を消化してしまったわけである。無為徒食である。こういうとき私は最大限自分を許すことにしている。休日だから仕方がなかったのだ。実家でシャーロックの録画が見られただけマシな1日だったのである。ワトソン君かわいくない?と思うのだがそれに共感してくれる友人はまだいない。

【移動について】

社宅、実家、寮と移動が激しく、交通費がもったいない昨今である。じゃあずっと寮に居ればいいじゃないか、という話なのだが、寮の生活環境はあんまりなので土日くらいは実家に帰りたいのである。実家に帰りたいのである(二回目)。しかし、金曜日には飲み会があるので、飲み会から実家に帰るのはかなりの困難を極める距離感なのだ。よって、金曜日は社宅に帰る。それから土曜日実家に帰るか帰らないか決めることになる。実家に帰ると衣食住用意があるので幸せだ。社宅に残れば自由時間が多く使えるのでストレスコーピングとして満点である。悩ましいところだが、大概実家に帰る。仕事以外の人間とコミュニケーションを取りたいのである。そして移動費が嵩む。仕方がない。早くこのトライアングルが終わらないかなー、と思う次第である。

5/14 僕「多幸剤ってどれくらい効くのか試してみたいよね」同期「マッドサイエンティストかよ」僕「普段から幸せならあんまり効果ない訳でしょ?相対的に現在の不幸をどれくらい感じているのか測定できる」同期「マッドサイエンティストかよ……」

【椅子について】

椅子がとうとう我が家にいらっしゃった。組み立てるのに苦慮したが、素晴らしい座り心地である。ああ、なんて素晴らしい家具なんだ、と私は嘆息したのである。床が多少傷付くことなど瑣末な問題に過ぎないのである。社宅だし。敷金払って出て行くし。机、椅子、箪笥が揃った居間は居間と呼ぶにはあまりに雑多な状態である。しかしながら椅子に腰掛けロッキング機能を最大にすればそんなことはどうでも良い。そのまま現実に目を閉ざして眠りにつくのも容易いのである。こうしてまた一つ私を駄目にする家具を購入したのだが、次はエアコン、君に決めたという感じだ。

【同期について】

同期はかけがえのないものだ、というような言説が跋扈している。そもそも人間とは誰しも代替不可能なものなのではないだろうか、という疑問はさておいて、とにかくそういうものらしい。同期、と言っても年齢がまちまちなので私のような院卒・24歳というのはレアリティが高い。高卒・18歳も(職種は違うが)いるし、36歳くらいの人もいる。話す。そして世界観がそれぞれ異なることを知り、それに一々驚く毎日が続く。

先日、私よりも年下の同期(仮にa氏とする)がもじもじと私の近くに寄って来たので、どうしました?と声をかけたのである。彼とは職種は異なるが居室が近かったのでそれなりに顔見知りではあった。

「あの、さっきの講義なんですけど」

「はい」

「先生の言っていた、≪妥当≫ってなんですか?」

私は数瞬頭を働かせ、a氏の発言を吟味した。先ほどの講師は「……であるからして、b説を採用する方が≪妥当≫である。というのも……」というような言い回しで何かしらを説明していたような気がする。彼はおそらく、このポイントを私に聞いているのだろうと推量した。彼は≪妥当≫の意味を知らず、前述の結論を押さえられないまま、次項の内容説明へ移られてしまい、混沌の中講義が終わってしまったのだろう。そうして、途方に暮れて現在に至った。そういえば、彼は前回のテストでやらかしてしまったのではなかろうか。再度記憶を探り、その前日、補講に出かける彼の姿を目撃したのを思い出す。確かにそれはa氏であった。

「適当、ということなのでは」

「テキトー?どうでもいいって感じですか?」

「ああ、いや、ちょっと言葉が悪かったかもしれません……適切、とか」

「適切」

「まあ、もうざっくり言って≪良い≫くらいで良いんじゃないですか。≪妥当≫を≪良い≫に変えてもそれほど困らないのではないかと思います」

「あー、良いってことなんすね」

a氏はお礼を言って去っていった。私はこれで良かったのかなということと、妥当という単語が分からないまま講義を聞いていた彼の胸の内に思いを馳せた訳である。同期だからなのか、割と心配なところだ。これも「かけがえのない」というニュアンスに近しいものがあり、前述の言説を支持するようでなんだか気にくわない。まあでも、やはりまた赤点を取ってしまうのは、かわいそうなように思うのである。次何か聞かれたらちゃんと教えてあげよう、そんな風に思うのであった。

5/13 弟「結婚する夢見たんだけど」僕「寝言は寝てから言って欲しいんですけど」

【失敗について】

花金ということで今日も飲み会に出かけたわけであるが、結局書類も書けず勉強もできず洗濯もできないという多重苦の中、疲れた体を布団に横たえているわけである。無論、このままで良いわけはないのだが、致し方ないところもあり、大人しく寝転がっている。

飲みの席では「今までやらかした失敗談」のような話になっていた。といっても、同期たちの失敗談などはささやかなもので、笑い話になるくらいのものであるから面白おかしく、おそらく多少話を盛りながら、つつがなく宴は進んでいった。

私の番、ということになり、何を話したものかと少し考え込む。失敗、とは何をもって失敗とするのか。私は失敗に関しては一流であると言っても過言ではない。あんなことやこんなことで、意図せず、あるいは不如意に、もしくは自分以外の誰かの働きによって、失敗し続けてきた。

折角なのでとっておきの失敗談を話してみた。この場では語れないような、センシティブな話である。抽象的に表現するならば、自分の能力と期待される能力の齟齬といった問題であり、自分と自分以外の誰かとの接触や相互理解といったことの難しさ、そして、生来の人間の脆さのような問題であるのだろう。それらは乗算で失敗の確率を高めてくる。失敗を思い出す。そこから学ぶ、などという美辞麗句が通用しないくらいの強さの後悔や恐怖感といったものさえある。失敗と撤退。それは生きる上で行うべきストラテジックな方略の一つであり、手放しの後退を意味しない、と思う。そうであって欲しいと思う。それならば、私とこれから出会うべくして出会う困難を抱えた人たちに、撤退の選択を提示することができるだろう。私の失敗に関する意義を見出す、たった一つの冴えたやり方なのである。