the 雑念

葉一用。とりあえず日記

3/21 飲酒すると暗い話をしがちなので悔い改めたいって思った翌日なのにこの有様

【教育について】
教育心理学を4年ほど専門的に勉強していた(と言っても許されると思う)ので、教育に関するあれやこれやについては色々な意見や持論がある。唯一思想と言っても良いものを持っている分野が教育だろう。他のことに関しては、それほど熱意も知識も無い。たまには専門分野のことを誰かに話してみたいものだ、と思っても込み入った話になるので控えている。それに、教育に関する人々の信仰は根強いものがあり、「学校教育は実社会で役に立たない」と本気で考えている人もいれば、「教育は人間性を高めるために必要なものである」と本気で考えている人もいる。信仰の対立が人間関係上で最も深刻な問題になり得る例は、国際情勢を見ればわかるところである。よって、私は教育に関する話を極力しないことにしている。
「俺ね、遺伝で馬鹿なんだと思うんスよ。親も中卒だし。だから頑張って勉強してもどうせ駄目だってわかるんス」
私が塾講師をしていた頃、担当していた生徒がこう言っていた(先日の彼とはまた違う生徒である。どうして私ばかりこう困った生徒を担当する羽目になるのだろうか)。彼の言説は学術的な観点からすれば半分正解で半分不正解である。例えば、知能指数というものに関しては遺伝に由来する影響が大きいと言われている。これは物事の習熟の速さや概念の理解に与える基礎的な影響力に直結していると言えるだろう。また一方で、単純な暗記など習熟に反復が必要なものに関してはこの限りではない。だから、学校ではあまり能力に差の出にくい暗記や暗唱といったカリキュラムが導入されがちで、それ故に「学校教育は無駄である」という言説を広める一因ともなっている。
そもそも、高校までの勉学とは遺伝の影響がそれほど大きく関係しない(あるいは関係したとしても致命的なものでない)数少ない事柄の一つである。努力量が実を結ぶ可能性のある事柄、と置換して差し支えない。だから学校で教えられることはまず勉学なのである。主述が逆転してしまった現代においては、勉学を学ぶところが学校ということになっているが本来は違うのだ。『氏か育ちか(nature or nurture)』とは古くからの教育心理学の関心事である。残念ながらブルデューらによって指摘された文化資本のように、氏と育ちは教育場面においても厳密に分離出来るものではないとする意見もかなりの正当性を有している(文化資本とは簡単に説明すると両親を始めとする子どもを取り巻く環境の格差についての考え方である。例えば音楽家の両親を持つ子どもは楽器や楽譜を教える事の出来る大人を生得的に所持した状態であり、そうでない子どもと文化資本が異なると表現出来る)。要するに、現実問題、生徒の言った言葉はほぼ正しいという結論に至る。
教育とはこの氏も育ちも持たざる人々にどのように働きかけるべきか、ということを考える学問であった。そういう意味で、教師という職業は『氏』と『育ち』に次ぐ第3の影響力になり得るものである。塾に来る子ども達は、残念ながらここにも恵まれなかったのかもしれないし、あるいは彼のように周囲の大人を見て上手く勉学を進めるモデルケースが存在せず早々に諦めてしまったのかもしれない。正直な話それ自体は全然、悲劇では無い。一番悲しいことは、勉学が出来ないから自分は駄目な奴なんだ、と思うことだ。この点についても、本国の学校教育では劣等感が生じやすい風潮であると言わざるを得ない。勉学、部活、その両者から脱落してしまうと途端に学校は恐ろしく、それでいて退屈な場所になってしまう。多分、いくつかのエピソードを集めて考えると彼もそうだったのだろうと思う。
「先生は勉強出来るから俺の気持ちなんかわかんねえっすよ」
それは彼が定期テストで残念な点数を取ってきた日に、私に向けて言った言葉だった。彼はテスト期間に自転車を盗み、捕まり、髪の毛を茶髪に染め、黒に無理矢理戻され、ワックスで髪を立たせてみたりしていたらしい。私は流石に言葉を失って、彼の隣にぼけっと座っているだけだった。素行も悪い上に塾の費用を親が振り込まないとのことで、彼は近々退塾する予定になっていた。彼の親については、他の生徒から嫌でも耳に入ってくる。端的に表現すれば、だらしのない親だった。
「そうかもしれない」
私には彼も、彼の両親も、どういう了見で生きているのかまるで理解できなかった。だが、隣で彼が密かに安堵していることは伝わってきた。私は怖い先生で通っていたので、怒られると思っていたのかもしれない。あるいは、急に髪の毛が尖っていることを責められたり、学校を停学処分にされたことを言われたりするのを警戒していたのかもしれなかった。彼は大人と話すときに何かしらの緊張感を有している。それはおそらく、彼の両親に関係することだろうと思っていた。今でもそうだと思っている。好意的に解釈すれば、彼は自分なりのやり方で『氏』と『育ち』の不条理と戦っていたのだろうと思う。私は担当生徒に甘い講師なのである。
彼が退塾する前に何か一声、「頑張って」とか「勉強しろよ」とかそんなことが言えたら良かったのにと思っている。彼は塾をやめる。また彼の文化資本が一つ減ってしまう。それはもう、この際どうでもいい。勉学とは学校でしか上手く働かないシステムなのだから、力点はそこではない。不幸や不条理との適切な戦い方、もっと穏健な言い方を選ぶならば、折り合いの付け方を彼は学ぶ機会を逸したのである。示威的な髪形は敗走を隠そうとする目一杯の抵抗に過ぎない。『勉学が出来ない。その気持ちがお前にはわかるまい』。これが弱音でなくて何なのだろうか。
教育は未だ発展途上にある。『氏』と『育ち』を超えられない。もしかしたら、超えることが出来ない、というのが結論であるかもしれない。教育だけでは超えられないのかもしれない。それはまだ、誰にもわからないことである。私は確率論者であるから、わからないことであればまだ賭ける余地が残っていると考える。分の悪い賭けは嫌いじゃない。教育について何か考える時、かなりの頻度で退塾した彼について考える。私の貧弱なモチベーションの中に、確かに彼の姿があるからだ。その後、彼がどうなったかは、わからない(わからないことだらけだ)。どこかで元気にやってくれていれば、と思う。
今日は分量が多くなりすぎてしまったので1項でおしまい。