the 雑念

葉一用。とりあえず日記

5/15 母「自転車使っていいけど使ったら空気入れといてね」僕「使わない」母「じゃあ使わなくていいから空気入れといて」僕「なぜなのか」

【予定について】

休日は布団の中で予定を立てる。大概それは上手くいかないものなのだが、便宜上1日を生きる上でのモラルの最低ラインを割らないよう計画を立てるのである。

今日は残念ながら上手くいかない1日だった。洗濯物は乾かず、クリーニングの受け取りに遅れ、電車を逃し、社宅に忘れ物をするという感じだ。結果、予定の半分もミッションをこなせず貴重な休日を消化してしまったわけである。無為徒食である。こういうとき私は最大限自分を許すことにしている。休日だから仕方がなかったのだ。実家でシャーロックの録画が見られただけマシな1日だったのである。ワトソン君かわいくない?と思うのだがそれに共感してくれる友人はまだいない。

【移動について】

社宅、実家、寮と移動が激しく、交通費がもったいない昨今である。じゃあずっと寮に居ればいいじゃないか、という話なのだが、寮の生活環境はあんまりなので土日くらいは実家に帰りたいのである。実家に帰りたいのである(二回目)。しかし、金曜日には飲み会があるので、飲み会から実家に帰るのはかなりの困難を極める距離感なのだ。よって、金曜日は社宅に帰る。それから土曜日実家に帰るか帰らないか決めることになる。実家に帰ると衣食住用意があるので幸せだ。社宅に残れば自由時間が多く使えるのでストレスコーピングとして満点である。悩ましいところだが、大概実家に帰る。仕事以外の人間とコミュニケーションを取りたいのである。そして移動費が嵩む。仕方がない。早くこのトライアングルが終わらないかなー、と思う次第である。

5/14 僕「多幸剤ってどれくらい効くのか試してみたいよね」同期「マッドサイエンティストかよ」僕「普段から幸せならあんまり効果ない訳でしょ?相対的に現在の不幸をどれくらい感じているのか測定できる」同期「マッドサイエンティストかよ……」

【椅子について】

椅子がとうとう我が家にいらっしゃった。組み立てるのに苦慮したが、素晴らしい座り心地である。ああ、なんて素晴らしい家具なんだ、と私は嘆息したのである。床が多少傷付くことなど瑣末な問題に過ぎないのである。社宅だし。敷金払って出て行くし。机、椅子、箪笥が揃った居間は居間と呼ぶにはあまりに雑多な状態である。しかしながら椅子に腰掛けロッキング機能を最大にすればそんなことはどうでも良い。そのまま現実に目を閉ざして眠りにつくのも容易いのである。こうしてまた一つ私を駄目にする家具を購入したのだが、次はエアコン、君に決めたという感じだ。

【同期について】

同期はかけがえのないものだ、というような言説が跋扈している。そもそも人間とは誰しも代替不可能なものなのではないだろうか、という疑問はさておいて、とにかくそういうものらしい。同期、と言っても年齢がまちまちなので私のような院卒・24歳というのはレアリティが高い。高卒・18歳も(職種は違うが)いるし、36歳くらいの人もいる。話す。そして世界観がそれぞれ異なることを知り、それに一々驚く毎日が続く。

先日、私よりも年下の同期(仮にa氏とする)がもじもじと私の近くに寄って来たので、どうしました?と声をかけたのである。彼とは職種は異なるが居室が近かったのでそれなりに顔見知りではあった。

「あの、さっきの講義なんですけど」

「はい」

「先生の言っていた、≪妥当≫ってなんですか?」

私は数瞬頭を働かせ、a氏の発言を吟味した。先ほどの講師は「……であるからして、b説を採用する方が≪妥当≫である。というのも……」というような言い回しで何かしらを説明していたような気がする。彼はおそらく、このポイントを私に聞いているのだろうと推量した。彼は≪妥当≫の意味を知らず、前述の結論を押さえられないまま、次項の内容説明へ移られてしまい、混沌の中講義が終わってしまったのだろう。そうして、途方に暮れて現在に至った。そういえば、彼は前回のテストでやらかしてしまったのではなかろうか。再度記憶を探り、その前日、補講に出かける彼の姿を目撃したのを思い出す。確かにそれはa氏であった。

「適当、ということなのでは」

「テキトー?どうでもいいって感じですか?」

「ああ、いや、ちょっと言葉が悪かったかもしれません……適切、とか」

「適切」

「まあ、もうざっくり言って≪良い≫くらいで良いんじゃないですか。≪妥当≫を≪良い≫に変えてもそれほど困らないのではないかと思います」

「あー、良いってことなんすね」

a氏はお礼を言って去っていった。私はこれで良かったのかなということと、妥当という単語が分からないまま講義を聞いていた彼の胸の内に思いを馳せた訳である。同期だからなのか、割と心配なところだ。これも「かけがえのない」というニュアンスに近しいものがあり、前述の言説を支持するようでなんだか気にくわない。まあでも、やはりまた赤点を取ってしまうのは、かわいそうなように思うのである。次何か聞かれたらちゃんと教えてあげよう、そんな風に思うのであった。

5/13 弟「結婚する夢見たんだけど」僕「寝言は寝てから言って欲しいんですけど」

【失敗について】

花金ということで今日も飲み会に出かけたわけであるが、結局書類も書けず勉強もできず洗濯もできないという多重苦の中、疲れた体を布団に横たえているわけである。無論、このままで良いわけはないのだが、致し方ないところもあり、大人しく寝転がっている。

飲みの席では「今までやらかした失敗談」のような話になっていた。といっても、同期たちの失敗談などはささやかなもので、笑い話になるくらいのものであるから面白おかしく、おそらく多少話を盛りながら、つつがなく宴は進んでいった。

私の番、ということになり、何を話したものかと少し考え込む。失敗、とは何をもって失敗とするのか。私は失敗に関しては一流であると言っても過言ではない。あんなことやこんなことで、意図せず、あるいは不如意に、もしくは自分以外の誰かの働きによって、失敗し続けてきた。

折角なのでとっておきの失敗談を話してみた。この場では語れないような、センシティブな話である。抽象的に表現するならば、自分の能力と期待される能力の齟齬といった問題であり、自分と自分以外の誰かとの接触や相互理解といったことの難しさ、そして、生来の人間の脆さのような問題であるのだろう。それらは乗算で失敗の確率を高めてくる。失敗を思い出す。そこから学ぶ、などという美辞麗句が通用しないくらいの強さの後悔や恐怖感といったものさえある。失敗と撤退。それは生きる上で行うべきストラテジックな方略の一つであり、手放しの後退を意味しない、と思う。そうであって欲しいと思う。それならば、私とこれから出会うべくして出会う困難を抱えた人たちに、撤退の選択を提示することができるだろう。私の失敗に関する意義を見出す、たった一つの冴えたやり方なのである。

5/11 今日の食事→から揚げ弁当、フライドポテト、ドーナツ 同期氏「見てるだけで胸焼けしてきた」

【ねむたみについて】

講義中のうたた寝が止まるところを知らない。見つかると超怒られるので、適度に適切に分割して寝ているのだが、これがまあバレないのである。バレてしょっぴかれていく人を見るにつけ、ラッキーとしか思わない辺り相当頭がやられているのは確かなのだが、ふと中高大院と人一倍怠惰な癖に人よりも多く授業を受けてきた私は授業内睡眠のプロであることを思い出した。


シャーペンを持ちながら、ノートにそれを斜めに立てながら、俯き加減で板書をしているが如く寝る。


これが私の基本的な競技スタイルである。時折目を開けて静止している時間を設けるのも大切だ。「あ、こいつ起きてるぞ」というのを相手方に印象付けるのである。そして長期の塊で睡眠をとることはしない。せいぜい3分程度意識を手放し、1分起きる。これを繰り返して様々な授業や講義を乗り切ってきたのだ(授業の75%を睡眠に充てることができる画期的な手法である)。ここに至るまでには、多くの苦難があった。ある時は生活指導の先生に胸倉を掴まれて叩き起こされ、ある時は罰として英作文を即席で作って板書しろと言われたり、一筋縄ではいかないのである(しかし寝るのはやめない)。今までの知見が、私の素敵な睡眠スタイルを確立しているのだ。研究に通ずるものがある(ない)。

5/11 僕「人生における野望ってあるじゃん?」同期氏「ボスかよ」僕「人間は誰しも自らの主人なのである」同期氏「トートロジーじゃん」僕「豚トロ食べたい」同期氏「難聴か」

【中日について】

週の中日というのが一番やる気のない日になりがちなのは昔からの習わしである。水曜日を愛せない。これを乗り越えてもまたあと半分残っているのである。おかしい。理不尽だ、と呟いてみる。当然のことながら、周囲の同期たちは誰もそうは思っていないようなのである。かといって、休日に何か特別なことをするわけでもなく、正直なところ私も困り果ててしまっているという節もある。週休2日、というのがこのご時世でどれほどありがたいのか理解しているつもりではあるが、いかんせんこれを有効に使えていないようだ。よくよく考えると布団に引きこもるのが好きなパーソナリティなので仕方がない。社宅に三種の神器を揃える旅に出かけるのが良いような気もしている。

【日課について】

全然終わりの見えない研修であるが、まあなんとか乗り切りつつあるというのが実情である。食事や講義のようなものを上手にこなし、宿題やレポートをとりあえず終え、ゆっくりとベッドに潜り込むくらいの余力が出てきてはいる。ここで油断をするとやらかしそうなので、何かしら緊張感を持って過ごしたいところだが、生憎人生の中で緊張感を覚えたことがない性格をしている。とにかく毎日言われた通り過ごすとお金が貰えるのである。それだけをよすがに生きていると言っても過言ではない。早急に用意すべきはテレビである。テレビ……出来れば4Kの40型……(いや正直そんなでかくなくても良いし4Kでなくても良い)。日課が金に変わると思うのだ。そう、この1秒1秒がお賃金に変わる。尊い。

【椅子について】

勢い余って高価な椅子を購入したのだが、ここ最近の疲労と眠たみの中で「この話、日記に書いたっけー?」となっている。構わずに書いていく。10万くらいの椅子だ。楽天スーパーセール的なあれで5万とちょっとで購入した。まだ届いていない。「人間工学がなんちゃらかんちゃらですごい!」と書いてあったような気がする(気がする)。実際1度家具屋でその椅子に座ったことがあるのだが、高級な椅子とは椅子という概念を覆していくもののようで、一撃で虜になってしまった。ちなみに椅子に座ったのは8年前である。それから私のささやかな野望は、高級な椅子を買う。そしてそれを自宅に置く。ということになった。折角社会人になって給料も貰ったのでこれを叶えよう、というわけである。冷蔵庫も洗濯機もテレビも冷蔵庫も差し置いて、分不相応な額の椅子を購入したのである。同期のA氏からは「貴族か」というコメントが出たが、より貧民に近いところではある。まあ、でも、私はやはり誰が何といっても野望を達成するために毎日を過ごしているのであるからして、椅子を買うことは運命であり必然だったのだ、としか思えない。椅子よ来い。

5/10 同期氏「この世界は間違っている、といつも思っていたが今日その歪みのようなものが明確に分かった。まずお前の存在な」僕「ソレスタルビーイングされちゃう」同期氏「俺は……嫌だね……」

【テストについて】

全然知らなかったのだが、テストで悪い点数を取ると研修所の掲示板に名前が張り出されるシステムであるらしい。「ふーん、そうなんだどれどれ見てやろう」と自分が絶対にそこに乗らないだろうことを確信したついでに好奇心でそれを覗いたのだが、知り合いの名前がちらほら見つかったりした。その隣に今回の成績優良者、という張り出しがあり、そちらも名前が張り出されているようだった。

私の名前が書いてあった。

テスト前日にディメンションWを読み漁り、出題範囲を間違えて覚えていた私は、当然そのように同期に話をしていた、わけである。「いやー、漫画読んでたし気付いたらテスト範囲違うし、今回ダメダメでしょー」みたいなことを言っていたのである。完全に悪いタイプの前フリと化してしまった。居た堪れない。そもそもテストの点数差がつきにくい構造の配点であったのが問題だったのではないだろうか、などと問題提起をしたところで最早私に発言権はないのである。何を言ったところで「よういち君って……」となってしまうのは明らかだ。しかしながら、これは偶々、選択肢や記号、あるいは当てずっぽうで書いた何かしらが思いの外正解してしまっただけの結果なのである。残念ながらそれを信じてくれる人はまずいない。

私の居室には毎週買っているジャンプが積まれている。親しい同期であれば、私が月曜日にコンビニでジャンプを買って、一通り楽しんでから同期に貸し与えていることをみな知っている。その大元が成績優良者。成績優良者という言葉は今や呪いである。周囲はからかい半分に「あ、成績優良者のよういちさん、今週もジャンプ貸していただけますでしょうか」みたいな距離感になっている(絶対に許さない)。私は重々しく頷き「よかろう」と言って民衆にジャンプを貸し与えるのである。

最初の中間テスト(のようなもの)で成績優良者になってしまうと、そこからの戦いは過酷なものとなる。それは高校までの人生でよくわかっていることだ。今回頑張ったけれど上位からこぼれた誰かとの、意図しない戦いがどこかでひっそりと始まっているのである。私はいつものようにその最前線に不用心に躍り出てしまった形になる。そう、頑張っている人がいるという事実に対して私は限りなく不誠実な人間なのである。休日に漫画を読む、規則スレスレのジャンプを買う、昼休みにはソシャゲのイベントを走る、私はそんな奴なのだ。休日に勉強をし、時間外に質問を重ね、昼休みに講義のメモを覚える、そんな人もおり、残酷なことにそんな人は大抵成績が優良ではないのである。しかしながら、頑張っている人はそれなりに得をしている。上司に名前を覚えられ、意欲を買われ、その後、勉強した内容を身につけていくのである。結果よりもそこからのプロセスにつながるのだ。今をのらりくらりとやり過ごしている私よりずっと得をすると思うのだ。当然のことながら、そんなことは思っていても口に出してはいけないのである。新たな火種を撒かないよう、私は目を瞑り、「これは偶々なんだよ」と言い続けるほか取るべき手段はないのだ。偶然とは便利な言葉である。

5/9 僕「という夢を見た」同期「それはフロイト的な解釈からすると」僕「やめて」同期「いや、集合的無意識の観点から考えれば」僕「ほんとやめて」

【午睡について】

昼休みに午睡を取ろう、と思い立ちデスクに伏せていたのである。本当はリノリウムの床に寝転がりたい気持ちはあるのだが、まともな精神を持っているのでやめた。事務机で寝る、というのはちょっとしたコツが必要なのだが、その真髄を文章上で指導するのは難しいので想像にお任せしたい。体のどこも痛くならないように寝る、というのが究極の目標なのだが、なかなかどうして肩が凝ってしまう。そもそも人間は寝る時に横になる生き物なのだ、と気がついた時には昼休みが終わっていた。結局のところ寝ることはできなかったのであるが、講義を受ける際にそっと目を盗んでぐっすり寝ることができたので大丈夫だろう。

【電話について】

不思議なことだが直属の上司から電話がかかってきた。曰く、健康か?メンタルはやられていないか?といった研修に寄せる様々なケアの一環であるらしい。私は電話に緊張感を覚えるタイプの人間なので「ケアのための電話が逆にストレスになる」というありがちな悲劇を演じていたのだが、軽い問診のような感じで終わったので極めてどうでも良い内容でほっとした。心配事や困ったことはある?と聞かれたのだが、直属の上司に心配事や困ったことを話す、というのはどのくらいの規模のことを尋ねられているのかわからなくて困る、というところはある。冗談が通じる人ならば良いのかもしれないが、今後、そういう人ばかりが上司であるという可能性に期待を寄せるよりは無難な心配事を用意するのが良い解決だろう、と思う。率直に言うならば今困っているのは社宅の床の傾きであるが、それを上司に言っても仕方がないのである。基本的に上司に相談すべきことは職務上ないのであった。というわけで「えー、んー、あ、ないです」という煮え切らない返事をすることになる。上司は勿論「言い淀んだ」と察知するわけである。厄介千万。良い感じの当たり障りのない困ったことを探している。