the 雑念

葉一用。とりあえず日記

5/1 きっと何者にもなれないお前たちに告げる

【私と弟について】
改元したらしい。伝聞調なのは実際に目で見て確かめていないからである。何となく正月のような雰囲気があり、スーパーの総菜売り場なんかも賑やかであった。
そういえば、年末年始に父親が家に居たことがなかったなと思い出す。父親もまたスーパーの店員で、世間一般が休みの時に働くサービス業の権化のような職業なため、私達兄弟は大型連休にどこか出掛けた記憶が無い。母親も人ごみが苦手な性質だったので、家でごろごろとしていることが多かった。先日帰省した際に、父親はそのことを後悔していると言っていた。「もっと遊びに行けばよかったと思ったけど、もう二人とも大人で、仕事や勉強があって、一緒に遊びに行くようなところも思い付かなくなっちゃったな」。悔恨とは都合の良い言葉だ。人から赦しを得られたような気分になるのだろう。
私は良く日に焼けた同級生たちを思い出す。「よういちは夏休みどこに行ったの?」。どこにも行かなかったとは言えず、祖母のいる田舎に行ったと応える。嘘ではなかった。ただ、自転車の圏内に祖母宅はあるのだが。そういう思い出はおそらくずっと心に残るんだろう。だからといって愛されていないとか、恵まれていないということはなかったし、そう感じなかった。ただ、活動性の低い人間たちはこうなんだと思っただけだ。もしかしたら、少しだけ僻みっぽい性格になってしまったことには寄与したかもしれない。
一方、弟は家の中でじっと収まっているような逸材ではなかった。夏も冬も家を飛び出し、友達と日暮れまで遊び、得体の知れない生き物や得体の知れない棒切れなんかを持って帰ってきた。私はそれをいつも少しだけ羨ましく思っている。私は魅力的じゃないし、周囲に遊んでくれるような友達もいない。いいなあ、と思って見ていた。それでも、まあ、弟には弟なりの悩みなんかはあったのだろう。他者とトラブルを起こすのはいつも弟だった。中学生になっても泣きながら家に帰ってくることさえあった。これは別に父親の所為ではないが(こういう一文を入れて客観性を担保したい。無論、文章の展開から無理だということは承知している。ごめんね父)、私は歪みを持って早熟し、弟はいつまでも純粋で傲慢なままだった。良くも悪くも、私達は相似形でいて、相補性や互換性のないまま大人になった。時代の節目に、そんなことを思い出す。

【回想について】
本当は昨日の内にこれをしておけば良かったのだが、今日思い出したのだから仕方がない。祝意に満ち溢れた日にこんな内容の文章をしたためるのは気が重たい。本当だ。まあ、気持ちの整理とかこれまでの人生のセーブポイントみたいなものだと思って割り切ろうと思う。私(ときには私と弟)が平成に置き去りにしたかったもやもやを書くことにする。実際に体験したことについてのもやもやなので、正解とか、解釈のようなものはない。やまなし・おちなし・いみなし、というやつだ。

・A君の話
私が中学校3年生の時の話だ。A君という車椅子の男の子と同じクラスになった。A君の障害の程度については分からない。教えられなかったからだ。両脚は完全に不自由で、指先もかなり硬直しており、もしかしたら知能にも軽い遅れがあったかもしれない。A君の両親が「勉強などは普通にできるので」という理由で、私達と同じ小学校を出て、同じ中学校に通うことになったようである。
A君は明るい性格だった。ただ、私達は彼のようないわゆる障害者とどのくらい密に関わるのが適切で、どのくらい立ち入ると無作法になるのか分からなかった。だから、級内への導入は円滑とは言い難かった。補助員の存在も、大人に対する一定の抵抗感が生じ始める季節として良くないタイミングだったと思う。よく言えば「不快感の生じない距離感で」、悪く言えば「腫れ物に触るような」彼との学校生活が始まった。
私は出席番号がたまたま近く、彼の介助に当たることが多かった。必然、会話をすることが多くなる。A君は良いヤツだった。電車に乗るのが好きで、将来は車掌になりたいと言っていた。私は、もう少し彼の手が自由に動くことが出来れば可能かもしれないと思ったが、それを判断する立場にないので「そっかあ」みたいな返事をしていたように思う。「よういち君は何になりたいの?」と訊かれたことを覚えている。その時は「大人」と答えたように思う。
部活を引退した後は、A君と放課後を戯れて過ごすことが多くなった。A君は母親が迎えに来るまで下校が出来ない。一人では通学が困難なのだ。その時間を同級生と潰すことは、中学生らしいことだと思った。私は半分くらいは義務感で、もう半分くらいは友人としてA君と放課後を過ごしていた。トランプをして、オセロをして、将棋をして、こっそり漫画を持ち込んで、遊んでいた。私だけでなく、他のクラスの友人も遊びに来た。そういう緩い輪を作るような明るさが、A君にはあった。1時間から2時間すると、母親が大きな車で迎えに来る。若くて、綺麗な人だった。「いつもありがとうね」、と私達に必ず声を掛けてくれた。私は、そしてA君も、このような日々に満足していたのではないかと思う。多分。

A君に変調があったのは2学期の初めからだった。

夏休みの話をしようとなった。私は相変わらず「祖母宅に行った」と繰り返して伝えていた(それでこの話を思い出した)。
A君は、もう忘れたが鉄道のイベントに行く予定だと話していたのを思い出す。私が話題を振ると、A君は戸惑いの表情を見せ「行けなかったんだよ」と答えた。どうして、あんなに楽しみにしてたのに。実際、彼からその話を5~6回は聴いたように思う。私は彼の体調が心配になった。でも、それ以上の言及はなく、その日は終わってしまった。いま考えれば、それが予兆とも言えなくもなかった。
それからA君は口数が段々と少なくなっていった。端的に言えば元気がない。そして、そういう自分を鼓舞して明るく振る舞う場面が目立つようになった。私は、今日は聴こう、今日は聴こう、と思ってそれをついつい先延ばしにしていた。思い過ごしではないかと思ったこともあるし、何故自分がわざわざ聴かなくてはならないのか。お節介じゃないのかと思うこともあった。結局のところ、私はきっと迷うフリをしてA君の悩みとか、それらしきものに触れるのが億劫だったのだろうと思う。そうこうしている間に、A君は学校を休みがちになり、10月の後半からはほとんど学校に来なくなってしまった。私も高校受験を控えていたので、放課後に学校に残ることもなくなり、少しずつ、少しずつA君と作ってきた慣習がなくなっていった。トランプはロッカーに仕舞い、オセロは家に持ち帰り、将棋は先生に返し、漫画はこっそり他の友達にあげた。

春になって、高校が合格した次の日に私の母親から、A君の話を聞いた。
夏休みの間に、A君の母親は実家に帰ってしまったらしい。当時はそう聞いたが、本当はほとんど錯乱した後の失踪だったそうだ。A君の介護疲れとか、A君の父親家からのプレッシャーとか、まあ、そんな色々があったらしい。伝聞調なのは実際に目で見て確かめていないからである。とにかく、A君の母親はいなくなり、A君はそれをきっと自分の所為だと感じていたのだろう。そこまでは、きっと確かなことなのだ。父親はA君の介護をほとんど母親に任せていたので、通学させることはおろか普通の生活もままならなかったようである。その状況の全てがA君の尊厳を踏みにじっていたのだろうな、と思う。いつも私は思うだけで、何かを行動に移せない。
卒業式の前日に、A君は父親に連れられて登校した。父親の疲労は明らかで、何もかもが大変、といった顔をしていた。母親の話は本当なんだろうと確信した。放課後にはトランプをした。ロッカーの奥底から取り出して、以前の仲間も呼んで、賑やかにやろうと思った。A君は養護学校に通うことになったと言った。欠席している間も、通っていたのだろうと思った。「それが一番誰にも迷惑掛けないから」と付け加えた。
結局それがA君を見た最後になった。卒業式には来なかったのだ。理由は分からない。私は泣きたかったが、泣かなかった。相応しくないような気がした。いまもどこかで元気にやっているといいな、と思う。
実は、こういう話はありきたりなのだと思う。だが傍観者として体験したそれは私にとって手に余り、今でも強い憤りを残している。それは剥奪に関するエピソードとして記憶されている。本当はA君と私は中学3年生を一緒に過ごすことが出来たのに、ということだ。これはおそらく妄想なのだろう。それでも、今でも捨てられないでいる。

・弟の話
最初は弟の、1個年上の先輩だった。就職後すぐに自宅で首を吊って死んでしまった。
私も顔は知っている程度の付き合いがあったが、弟はかなり親しくしていたようである。彼が最後に連絡を取り合っていたということで、弟は警察から任意で事情聴取を受けることになった。帰ってきたとき、弟の顔は白くなり、手が震えていた。弟が見て欲しいというので、メールの履歴を見た。他愛のない、何でもない普通のやり取りだった。
『それじゃあ、明日も実験がありますのでお先に失礼します。おやすみなさい』
それが弟の最後の送信となっている。弟はこれをかなり気にしていたが、どう考えても普通のやり取りではないのかと応えた。納得はしていなかったが、警察の聴取を終えたあとでもあり、ナーバスになっているのだろうと思っていた。実際、この件についてはそうだったと確信している。

その一年後、今度は弟の同窓生が死んだ。やはり自死だった。詳細は伏すが遺書もあり、計画的な死だったようである。

既に私は社会人になっていたので、弟の電話でそれを知った。弟は相当参っているようだった。弟は話すときに「また」という言葉を使った。遺書の中に弟のことを指すような描写があったそうである。要旨としては、弟のように頑張れず、優秀でもない自分に嫌気が差した、というような内容だったらしい。やはり警察に赴き、事情聴取を受けた。
実家に帰り、弟と話をすることにした。弟は訥々と、これまでの経緯を話す。友人だと思っていたこと、研究と金銭について悩んでいたこと、一緒に色々な手伝いをしたこと、それらが回り回って、友人を追い詰めていたこと。そんな内容だ。今回はほとんど名指しされていることもあり、弟の落ち込みもひどく、食事も喉を通らないと言う。
正直に言うと、こいつツイてないなと思った。
だが、弟にすれば自死が出来事のインパクトとして大きいだけで、これまでも弟の振る舞いや能力に対して嫉妬や何やらを向けられてきたのだろうと思い直した。これは彼にとって大事なテーマなのかもしれない。即ち、「俺は他人が死を選ぶほど受け入れられないような人間なのだろうか」というバカげているけれども深刻な問い掛けなのである。贔屓目はあるにしろ、私の弟はそれなりに優秀である。勉学に関しての話である。研究論文も数本ある、なんてことを言っても仕方がないと言えば仕方がないのだが。私が彼を評価しているのは、好きなことや興味を持ったことに対して真摯に、それでいて継続的に努力を積むことができる点だ。それは、得難い特性であるだけに、時には他人の劣等感を刺激するのだろうと思う。
そう言われれば、弟は昔から周りから煙たがられるようなところがあったと思い出す。何てことは無い、典型的な委員長タイプなところがあるのだ。自分が出来ることであれば、誰でも同じように出来ると思っている節があるし、正論を突き付けることも致し方ないといった行動が他者の神経を逆撫でするのだ。最近は大分丸くなってきた方ではあると思うが、出来ることが膨大な人間は確かに他者を巻き込んで破滅させることもあるだろう。弟はそれに間違いなく当てはまる。真面目なヤツなのだ。どこまで行っても。
人は誰かと同じように努力できない時、色々な言い訳や逃走をするべきだと思う。自他を守る為に。それが互助的にできないとき、コミュニケーションは破綻するのだろう。
かと言って、弟が同窓生を追い詰めたと私は考えていない。自死の要素は常に複合的だし、衝動性も無視できない要因である。信念を持って既遂することもある。自死はその人自身のものであって、誰か一人が担うには重く、傲慢なことなのだ。私は最終的に弟に甘い。それは身内だけの特権だ。
休学の話も出たが、結局は継続して研究を続けている。弟は私に比べてタフではないので、ふとした時に泣き出してしまうことがまだあるらしい。だからこの文章は、弟の目に触れないところで私から送る見解の一つである。誤解を恐れずに記すならエールだ。

【悔恨について】
後悔先に立たず、と言うが、これからもたくさん後悔をしていくのだろうという予感がある。私も。弟も。願わくば、その悔恨が父親のように、取り返しの付くことであってほしいと祈る。そんな新しい日々である。

4/22 あなたのために歌うことがこんなにも辛いことだなんて

子供じゃないので夜中にもお菓子を食べるよういちです。

 

※出先でメモりながら文章を書いているので校正はおろか、後悔をする余裕もない文章となっております。

 


【恢復について】

色々な業務が重なり、久方ぶりの休みとなった。何をするわけでもなかったが、外に出ようと思った。これもまた久方ぶりのことである。職場と自宅を往復するだけの毎日に変化を与えたかったのだろう。多分、そういう欲求が私の中にもある。


・経緯

白状すると、3月から心身不調だった。軽いうつのようなものだろう、休みの日になると何もやる気にならなくて無限に寝ていることが多かった。思いのほか食事制限がうまくいき痩せてしまったことと、仕事の緩急の激しさと、あとは記すことができないささやかな課題があれこれあったことに由来すると思っている。とはいえ、出勤できないなど社会適応を損傷させるほどのことでもなかったので退勤後や休日はゴロゴロと寝転んで映画を見、寝すぎて寝られなくなれば朝までゲームをし、おかげでグラブルのランクは上がり、大奥でロードの長さに耐えながら大回転することができた。だからあらかじめ断っておきたいのは、さほど深刻ではなく、生得的な「ちょっとダルい」が比較的強かった時期だったということである。


・お腹ブレイク

滅多にないことだから、何が私の心的活力を奪っているのかそろそろ実験してみることにした。仮説として一番有力だったのは「思うように物を食えないストレス」だったので、一昨日ドミノピザのLサイズとポテト、ナゲットを発注し、一人で平らげた。久しぶりの暴飲暴食(コーラも飲んだ)だったので、腹が苦しくなった。翌日、すぐに元気になった。単純なものである。腹が全壊したので1日行動不能ではあったが。(真似しないでください。トイレに引きこもる場所が変わるだけです)

そして今日、腹の調子を整え、こうして外出に漕ぎ着けた訳である。ショッピングモールに行き、無印良品に行き、本屋に行き、ブックオフに行き、ケーキ屋に行き、喫茶店に行こうと思う。過活動気味だが、基本的には徘徊であって買うべきものもほとんどない。傍迷惑な輩である。


・躁的活動

テンションが高いので、いわゆる躁状態なのではないかという期待がある。いつもはあれでも内容を取捨選択し、ほどほどに洗練させて日記を作成しているのだが、今日は試しに思いのまま書いてみることにする。記録として黒歴史にならないことを祈るばかりだ。


・昔取った杵柄とプレイヤーランク

ショッピングモール内にあるゲームセンターでチュウニズムという音ゲーを見かけた。院生の頃にはまり、さして上手くもないのだが通っていたことがある。財布を開けてみれば丁度良いことに100円とAimeカードがあるではないか。私は3年ぶりに音ゲー(ゲーセン)に挑み、突き指をした(ところでポプテピピックの譜面めっちゃ爽快感があるのずるくないか?)。活動的なのは良いことだ。経済を回すこともできる。清貧という名の吝嗇なので、1クレでも世界を大奥の如く大回転させたような錯覚がある。躁かな?(これはダジャレです)


文明の衝突

仄かな疑惑を弄びつつ、本屋に突撃して「Fate/strange Fake」の新刊を探す。県内で一番大きい本屋に行ったが、取り扱っていなかった。田舎には伝来していないという。文化的な断絶が厳然としてあり、ちょっと泣いた。結局は「こころの科学」という心理オタク専門誌の最新刊を入手しただけに留まった。就職してから良かったことは(就職したのは3年前なことをいつも忘れているのでこうした書き出しになる)、3000円くらいの買い物なら即決できるようになったことだ。期待外れでもあまり後悔しない。


・全然行きたくない

無印良品に来た。ところで私は無印良品のあれこれが嫌いである(いきなりdisる人間として最低の行いである)。客層と店員どちらをとっても「私には分かってますよ」「自然派」「少し高くても良いものを」みたいなニュアンスというか雰囲気が肌に合わないのだ。没個性的という個性を放つから、本当にこの世から消えてしまいたいとか、社会の背景になりたい私などには敷居が高い。なぜ来たかというと、洗濯カゴが欲しかったのだが100均では思うようなデザインや大きさがなかったため「用途不明な馬鹿でかいカゴ」が置いてありそうなところとして思い浮かんだからである。想像通りあった。プラカゴで良いのだが、隣に同じ大きさの籐カゴもあったので検討した。4000円だった。「4000円!」と声に出ていた。ナチュラルメイクの「ご理解している」店員さんがチラリとこちらを見て微笑んでいる。100均で買おうとしていた40倍の値段設定に目眩がした。迷わず1000円くらいのプラカゴを買った。企業側のストラテジーを感じ(被害妄想)、無印良品に対する憎悪はより一層加速した。


・パンとケーキを食べればいいじゃない

腹が減っていた。だが昨日の惨状を思い出すと、おかゆちゃんなどが良いのではないかと思う。現在肚の中には何も入っていない状況となっている。トイレを気にする必要がなく、論理的に正しい。しかしお腹が空いた。ステーキ屋がある。唐揚げ弁当もある。そしてまたピザもある。「ものすごいゆうわくだ!」ドラクエ調のウインドウだって出る。しかし今日はケーキを食べると決めていたので、ここでやらかすわけにはいかない。即ち、カロリーオーバーである。計算と理性により、昼食はみんな大好きサブウェイとなった。音楽と野菜が全てを救う。

「チリチキンひとつ」

サブウェイのチリチキンは最高である。バイトのお姉さんはおそらく新人さんであった。チリチキンがガッツリはみ出している。野菜乗らないよ、と言いかけて我慢をする。野菜を乗せる。乗らなかった。物理的な問題があるのは明白だった。オリーブを乗せればピクルスが落ち、ピクルスを乗せればチキンが溢れる。ひとつ積んでは父のため……という気持ちになってきた。彼女は強引にあれこれを巻き込み、サンドイッチをほとんど「梱包」とでも言うべきタイトさで仕上げた。ケーキを買った後、自宅でサンドイッチの包みを開ける。オリーブとオニオンが「待ってました」とばかりに散逸し、テーブルを汚した。


・天敵

迷ったのだがもう一度外に出ることにした。近所にカフェができたそうなので、行ってみたかったのである。

定休日だった。今日は月曜日。迂闊を絵に描いたような人間である。

だからこの文章は何の変哲も無いサンマルクカフェでほうじ茶ラテを啜りながら書いている。何も書くことはない。高校生が思ったよりもたくさんいて、自分が高校生の時は喫茶店なんかに入ったことはなかったなと思う。お金持ちなんだろうきっと。と僻んでみる。本当は近所に喫茶店がないほど田舎だっただけである。

事情は伏すが、私は未成年者にとってほとんど死神みたいな存在なのでこうして近くに子供いると緊張感がある。昼食にフードコートを避けたのもそうした理由があり、これまで気付かなかったが、昔よりもかなり子供一般が苦手になってきていることを認めざるを得ない。文章をこれ以上割けないし、うまく説明できる気もしないので割愛するが、端的に表現するならば愛憎があるのだろう。


・休日の終わり

あっという間に1日が終わろうとしている。寂しいものだ。振り返るとやはりおかしなテンションと文章ではあるが、まあ、許容範囲だろう。いつもとさして変わりはないけれど、それはそれで落ち込む。文脈のつながりのようなものが断裂気味なのは、やはり推敲の問題だろう。けれども、日記というのは推敲されないで書くものだから、こんな形であっても良いはずだ。

比較的元気である。ぐったりすることがあるのも人生だろう、と思って心理学徒ならではのしおらしい態度をしていたら、ピザ一枚でこんな調子だ。安上がりな人間である。もちろん、きっとそれだけではなく、時間やらタイミングやらあれこれ重なったことが大切なんだとは分かっている。それでも、今日はピザで復調したことにしたい、訳だ。そんな日もある。人間的だ。あまりにも、人間的な気持ちに満足している。

3/4 好きな漫画は何?って聞いたら『ビリーバーズ』って即答する女の子となら結婚したい

TSUTAYAについて】
5年ぶりにTSUTAYAに行った。
〜回想〜
5年前のある日、私は研究室でファミマのエクレアを食っていた。レジが混んでいたので、ビニール袋にレシートとTカードを入れて足早に退店したのだが、それらを財布に戻すことなく、ついにはエクレアの空袋と一緒にゴミ箱に捨ててしまったのであった。
〜回想終わり〜
かくしてTカードを紛失した私は、TSUTAYAに行かなくなったのであった。社会人になってからはAmazonプライムのおかげもあり、そもそもDVDをレンタルする時代は終わったのだとさえ思っていた。だが不思議なことに、あの膨大なAmazonプライムのラインナップにも飽き、無限に見続けてしまう空虚さ・無為さに耐えかね、結局再度TSUTAYAを利用することとなった。
というのも、ロード・オブ・ザ・リングスペシャルエクステンデッドエディションを観たかったのである。先日『指輪物語』を読み終えた記念に映画を見ようと思ったのだが、このなんたらエディションの方が未公開シーンも多く、優れていると評判だったからである。Amazonプライムは優秀であるが、このような「特別枠」「追加版」などにはやや不向きだ(それにしてもスペシャルエクステンデッドの響きは一種異様である)。
さて、5年ぶりにTSUTAYAに入店したが、まずTカードを作り直すという厄介な仕事があった。この面倒さを避けてTSUTAYAを利用しなかったと言っても過言ではない。申し込み用紙を探す。大抵こういうものはレジ横にあるものだ。と徘徊すること約5分、全く見つからない。そもそもレジがフルオートなので店員がレジ付近にいないのである。帰ろうかな、と思った。しかし私は既に7km近く自転車を漕いでいたので、ここでケリをつけたい気持ちの方が最終的に勝った。DVDをあるべき場所に戻すという尊い仕事をしている店員の背後から、襲い掛かるように声をかけた。
「Tカード作りたいんですけど」
「は?」
私と店員の間で世界が静止した。その瞬時、私の脳内に去来したのは友人が『眼鏡市場で『JINS PCをください!!』と叫んでしまった』というエピソードである。即ち、ここはTSUTAYAではない?まさか?
しかし私は目の前の店員があのTSUTAYA特有のクタクタになったポロシャツを着ているのを見て考えを改める。最悪ブックオフの可能性があるのではないかとも思ったが、やはりここはTSUTAYA。紛うことなきTSUTAYAのアトモスフィアに満ちている。私は勇気を出して再度チャレンジした。単純なコミュニケーションの問題は要するに単純なコミュニケーションの回数の問題であるはずだ。
「Tカードを失くしてしまって、新しく作り直したいのですが」
「わ、わかりました。店長呼んできますね」
私は不出来な生徒よろしくレジ横に立たされ、会計客の見世物にされることとなった。私はぼんやりとなぜ店長(店長とはつまり、店で一番偉い人なのである)という権力者とやり取りしなければならないのか、ということについて考えていた。それはまず、店員とのディスコミュニケーションにヒントがあるのではないかと考える。
思うに、日本でTSUTAYAに入店するほとんどの人間は既にTカードを持っているのではないだろうか。何らかの方法で入手した、もしくは天賦のTカードがあり、店頭でTカードを作成する人間はいないのでは?だから店員はこう思ったのだ「この人、TカードないのにDVD借りにきたの……?」と。
恰幅の良い店長が愛想よく対応してくれて、即座にTカードは発行された。様式は記憶していたものと大差なく、デザインも失くしたものと同じだった(ただし年会費のことを忘れており、支払い時に少し面食らった)。
「アニメとコラボしてるデザインのTカードもありますが」
店長は如才なくリコメンドしてくれたが、生憎近所のドラッグストアで使うのにはハードルが高いので諦めた。ありがとう店長。目的のロード・オブ・ザ・リングを探すこと20分、ようやく特設コーナーにあるのを発見し、帰途についた(その途中、ウテナ劇場版とペルソナ3劇場版も借りた)。
やはり5年間も遠ざかっているとかなり使い勝手が違うので何事にも驚かされる(VHSがない、セルフレジ、セルフTSUTAYA袋など)。今度は誰にも特集されないホラーなんかを借りてみようかな、と思うのであった。

【就活について】
弟が本格的に就活を始めた、らしい。らしいというのも、弟はやや特殊な技能と知識があり、私とはまた別のベクトルのマニアックな仕事をすることになりそうなので通常の就活とは異なる期間、異なるアプローチで始まり、そのうち終わるということだそうだ。私も弟も履歴書(昨今はエントリーシートと呼ぶらしい)を作るのも面接も下手くそなので、結局のところマニアックな人々がマニアックなことをしているマニアックな集団に帰属することになってしまうのだが、まあそれも仕方がないのだろう。
ところで私はいわゆる普通の就活をしたことがない。現職に至ったときには普通の就活をしたように思ったのだが、実際にはそうではなかったようだ。だから大卒者の就活事情のようなことにひどく疎い。そもそも、私の人生の重要な部分は仕事にはないので、金銭を得る手段としての仕事というニュアンスでは企業に採用され難いようであると知り、信じられないという思いだ。会社が個人の人生全体の面倒を見る(だからあなたも会社に尽くしてね)、という前時代的な背景を感じるが、私は不況に生まれ、不況を日常として青少年期を過ごした人間であるので、こうした信仰を持っていない。私達世代の就活はこうした世代間のギャップに直面しているからきっと違和があるのだろうな、と思う。企業に残留した人々は、まだそうした信仰の中で生きられるからこそ企業に残留しているわけである。
そんなこんなで私は就活を知らないし、世間一般の仕事のありようも知らないまま今日まで生き延びてしまった。残念ながら弟に対するアドバイスはない。多分、弟もそうなると思う。どうも我々兄弟は「一般」から外れたいという強い欲求があるように思えてならない。弟はさておき、私自身は普通に生きたいのだが、ままならないものだ。

読書感想文004:『デンデラ』佐藤友哉

〇感想文について
冒頭にあるけれどここは一番最後に書いている。振り向けば佐藤友哉の悪口だらけになってしまったので、それなりに反省はしているのだが、佐藤友哉のファンの方なら多分「分かる」と言ってもらえるのではないか、とも思っている。絶版となってから鏡家サーガを読み切った私の根気に免じて許してもらいたい。その中では『エナメルを塗った魂の比重』が一番好きである。

〇今日の感想文:『デンデラ』/佐藤友哉

・経緯
先日、一週間ほど山奥に籠って研修を受けなければならなかったのである。雪深く、最寄りのコンビニまで10kmあると聞き、人間的生活をほとんど諦めることとなった。幸い、電波と温泉は利用可能であるらしいが、それだけでは間が持たないので手持ちの文庫本を何冊か持って行こうということになり、選抜が行われた。その中の一冊が本書である。懇切丁寧に私の状態を描写したのは、この『デンデラ』の舞台が雪山であり、事情を知っている人はこの采配ににやりとするだろうと思ったからである(ここで正直に言うと然程面白くないな、と途中では気付いていた。本当である。消すのが勿体ないと思ったのである。負け惜しみじゃないぞ)。ところで私は推理小説家としての佐藤友哉をほとんど評価していない。バッサリである。これも読んだことの無い人に説明することは難しいのだが「んー、清涼院流水京極夏彦読むね、じゃあ!!」みたいな感じになってしまうのである。メフィスト賞の墓場的存在だ。あんまりこんな風に書くと作者の『クリスマス・テロル』なんかを思い出すのでここら辺にしておこう。一応鏡家サーガは全部読んだのだが、相性が悪いんじゃなかろうかと感じたところもある。サリンジャーの出し方とかは上手なんだけどな、何でそっちに行っちゃうんだろうと思う訳だ。と散々な書きようだが、決して佐藤友哉が凡庸な作家であるということではない。むしろ、衒学的な、ちょっと嫌味なくらい本を読んでいて、それを引用しまくるところなんかは、分かる人には分かるし面白いだろうと思う。結局は『1000の小説とバックベアード』のように純文学への怒りと憧れをない交ぜにしてぶちまけるような作風が一番性に合っているし面白いのだろう。そんなこんなで、『デンデラ』もこれらに負けず劣らず、作者の意欲作かつ、いつもの問題作なのである。

・あらすじ
『お山』に入り死ぬことで極楽浄土へ行けると信じていた斎藤カユは、同じように『お山』に入り死んだと思われていた老婆たちに命を救われ、姥捨て山に捨てられた老婆たちで作られた集落『デンデラ』に連れて来られる。極楽浄土に行けなかったことへの憤りから不適応を起こすカユ、集落の主権を握り、自分たちを捨てた村への復讐を誓う者、『デンデラ』の調和を望む者、茫洋と余生を過ごす者、様々な思惑が渦巻く中、『デンデラ』を羆や伝染病が襲う。と地獄のような話が延々と続く訳だが、語りがですます調なのでまたそのギャップが愉快である。丁寧な文章はかえって残酷さや人の醜さを際立たせる。また、老婆たちの口調の若々しさも最初は慣れないが読み進めていくうちに硬派な無頼たちが話しているように見えてくるので、一体何を読まされているのか段々と分からなくなってくる。が、テーマは明快で、老婆たちに仮託しながらも社会や個人の生きる意味、そしてそれと全く関係なく厳然と存在する自然を巧みに描いているとか言っておけば良いだろう。それにしても、ここで老婆をチョイスしてしまうところが実に佐藤友哉である。ちなみに柳田国男吉村昭の話を知っていると本当ににやりと笑うことができる。香る程度のペダンティックが作家としての成熟の証だろう。

・みどころ
羆である「赤毛」と斎藤カユの対比構造が骨太なので、ともすると目標を見失いがちな本書のガイドとなる。共に与えられた規範に疑いを持たず、思考せずに生きてきた者同士である。カユが初めて自立した思考を働かせるところから物語は始まり、紆余曲折を経て、ただ本能のまま貪るだけだった羆に一歩先んじる形で物語は終わる。圧倒的な強者として描かれる羆を瞬時、老婆が上回るのは何故か。それは、冷めた目で見ればご都合主義のファンタジーとなってしまうだろう。その解をどこに見出すかによって、初めて読者各々の読書体験となるに違いないと思う。後はとにかく老婆しか出ないし、ほぼ全編奇行になるし、新キャラが出てもすぐ死ぬので諦めないで読んでほしい。私は笑いながら読んだ。

・まとめ
全然まとまらないし、相変わらず前書きが長過ぎる。さては反省する気が無いな?
ビジュアル先行で映画のインパクトも大きいが、原作は意外と落ち着いている。これだけ突拍子もない話しながら、勢いで読ませようとせず、肉厚で(重厚で、と言うには何故か憚りがある)、じっとりと嫌な気持ちにもなる。ちなみに、ちょっとした謎解きもあるにはあるのだが、ネタも動機も結構見え見えで入れなきゃいいのに、という気持ちになったことは内緒である。やはり推理ものは向いていないのだろうと再確認したところだ(ただ、本筋という程ではなく、余興程度なら及第点であるからして、本書そのものの価値を損なうものではない)。雪山に向かう予定のある方は旅のお供に是非本書をどうぞ。羆が怖くなることだけは請け負おう。

2/10 先輩がスティック糊取り間違えてリップクリーム茶封筒に塗りつけてるの見て自分はあと10年くらいはクビって言われないだろうなと思った

○美術館について

仕事が閑散期となり、休日に暇を持て余すことが多くなった。とはいえ、業務の性質上長期の休暇を取るわけにもいかず、遠方へ旅行に行けるわけでもないので引きこもりが加速する日々である。近場で時間の潰せそうなところを調べていると、転勤して2年目、ようやく勤務地がいわゆる観光地であることに思い至った。しかしながら、見るべきものは多いが、どうにも関心をそそられない。寺社仏閣に興味がなければ、戦国武将にも興味がない。温泉にも心惹かれない方であるし、強いて言えば食事だが、それこそ遠出をしなくても地元の美味しいものはスーパーに並んでいる。残念ながら、旅先でもホテルに引きこもっている人間であるため、この引きこもりはもっと根の深いものであったようだと観念したところだ。

そんな話を職場の先輩にしていると、先輩曰く「それならば、あそこの美術館に行くと良い」と言う。私は生来、美術館というものに本当に縁がない。いずれにせよ、心揺さぶられないのである。と言うと世の中の大半の人は別に感動したくて美術館に赴くわけではないらしい。先輩の説明するところによると、美術館で何がしかを鑑賞している人の大半は暇潰しであり、呼吸のみを目的としているようである。私が「本当か」と重ねて尋ねると、先輩は「本当だ」と得心して応える。それならば、と思い腰を上げて近場の(とはいえ、自転車で1時間ほど)の美術館に行くことになった。

その美術館は、私でも名前と絵が一つくらいは思い浮かぶような、海外の有名画家の作品が常設されていることが売りであると言う(先輩はそのようなことは一言も言っていなかった)。油絵である。と言っても、私は世の中の有名な画家はみんな油絵を描いているのだろうと思っていたので、油絵以外の絵がどんなものかはわからない。強いて挙げるならば、水彩画と版画は多分わかる。あとはPhotoshopとかSAIになるのだろうか。ここら辺からは全くわからない。

立派な額縁に収まり、一番良いところと思しきところに飾られている絵が、有名なことはかろうじて判別できた。名前も知っていた。思ったより小さいな、という感想以外の感想が出てくるのではないかと思って15秒ほど絵を眺めた。何も出てこなかった。それどころか、『田舎の絵ばかり描いている人だなあ』と思った。メタ認知が残念すぎる、という別の感想を抱きながら、私は他の絵を眺めていく。他の画家の作品も並べられ、どれもこれも羊や森、畑の絵なので、きっと田舎の絵を描く人々展なんだろうと思ったらちゃんといかめしい名前が(忘れたが「~派」のようなもの)付いていた。主題は当たっていたようなので多少満足したが、それだけだった。

昔から芸術と呼ばれる分野のものに滅法弱かったことを思い出し、ベンチに座って途方に暮れた。美術館に縁がないとは書いたものの、自分の琴線に直撃するものが何かあるのではないかという期待が常にあり、誰にも見咎められないように美術鑑賞へ出掛けたことは何度かある。いずれも望みは叶わなかった。きっと先輩の言うとおり、そのようなことはまず生じないのだろうと思う。私の未知への期待が大きすぎるだけなのだ。そう気を取り直し、日本人画家のコーナーもあるというので(そして入館料がもったいなかったので)、そちらへ足を向ける。後半戦は前衛芸術のようなもの、となってくる。そうなると本当にひどい。『丸い』『でかい』『重そう』みたいな感想が、一瞬の『無』を経由して引きずり出されてくる。この感想が自然ではなく不自然から生じている点に、やはりどこか無理があるのだろうと確信する。絵を見ても何も感じられないというのは私の中では本当かもしれない。まあそれは、仏像でも、立派な建物でも、イルミネーションでも同じで、「見る」ということからなかなか情動が引き出されることはない。勝手に逆共感覚と名付けたい。

では逆に、美術鑑賞を実施した日に美味しいものを食べるなどの報酬を与えることで、美術鑑賞を快刺激として定着できないだろうか、などとコーヒーを飲みながら考える。美術鑑賞の本質ではないけれど、茶道でもなんでも最初はまず型から入ると言うではないか。そのうち、食欲と対連合された快刺激の中から美術本質への快刺激に至ることもあるかもしれない(自覚を伴う弁別には困難を伴うだろうが)。我ながら良いアイデアと思ったが、そもそも型が歪みきっているのでダメだろうなと思い直した。人間的欠損をまた大きくするところだった。危ない危ない。

 


○減量について

健康診断で太り気味の指摘を受け、嫌々ながら減量を始めたわけである。太り気味、というのは一体どういう基準なのかわからないが、身長に比して体重が重い、以上のことではないと医者は言う。すなわち、脂質や腹囲といったものは正常の範囲内であるからして、メタボ等には当てはまらないとのことだそうである。

「つまり、どうすればいいんでしょうか」

「これ以上太らない、あるいは正常範囲の中央付近により寄せるよう努力すると将来ももっと生きやすいということだ」

サービスで体脂肪率と骨格筋率を測定してくれるというので測ってみると、体脂肪率は20%前後、骨格筋率は36%前後であると言う。医師曰く「標準なんだけれども、体重を考慮した結果骨太と言える」そうである。

なんだかわかったようなわからなかったような結果だったが、確かに体重が増えてはいるので少なくとも現状維持はしようと思い、それならば減量に舵をとった方が現状維持に最低限至るだろうと考え、減量(仮)が始まった次第である。ややこしい。

自宅に体組成計を常備したことで、学生時代よりも太ましくなっていることが数値で示され、まず憤り、次にどうにかこれが嘘の数値ではないかと疑い、嘆き、最後には現実を受容することができた。キューブラー・ロスの唱えた死の受容と全く同じプロセスである。障害受容等にも応用されることがあり、汎用性の高い仮説であることが再認識された。

それはそうと、結果として全然痩せてない。横ばいである。現状維持である。故に目標は達成できている。総合して許されざることである。

しかしながら、こうして3年かけて蓄積した脂肪やらなんやらを半月程度で清算できると思っているならば考えが甘すぎるのではなかろうか(お前の話だよ)。そう思いつつ、言い聞かせつつ、ある朝突然痩せねえかな、と思いながら眠りにつく、そんな毎日である。

読書感想文003:『しゃべれども しゃべれども』佐藤多佳子

○感想文について
多分飽きると思う、と思いながら始め、もう早々に飽きてきたのだが、記録せずに本を破棄することも惜しい。板挟みである。10番代までは既に読了ストックがあり(読むスピードと書くスピードの差が大きすぎる)、一体私は何をしているだろうかという困惑も生じつつある。人生の縮図である。

○今日の感想文:『しゃべれども しゃべれども』/佐藤多佳子

・経緯
『黄色い目の魚』を読んで以降、私は佐藤多佳子を贔屓することにしている。佐藤多佳子はすごい。かわいい。やんごとない。語彙が和語になってしまうのも仕方のないことなのである。「爽やかな青春小説」のイメージが強いけれども、そうした人の情動を表す描写を満遍なく散りばめる技術に優れている点を取り上げたい(だから今後の展開をすぐ気付いちゃった、となってもその表現の豊かさをたくさん味わうことができる)。故に、本を読み始めた中高生をターゲットとしながらも私のように捻くれた読者も相手にしてくれる尊さの権化のようなところがある。話題のテーマを恋愛ものとしてまとめる癖があるので、「少女漫画的」と評されることもあるが、私は少女漫画も好きなので特段困るようなことはない。今回は貴重な佐藤多佳子ストックを無事にそして少し名残惜しくも消化したということになる。それにしても、佐藤多佳子のように世の中の人にたくさん読まれている本はわざわざ私が感想を書かなくたって良いし、皆さんも読まなくって良いのである。Amazonかどっかのステキなレビューを読めばよろしいのでは?という気持ちが去来しているが、始めてしまったのでこのまま終わりまで突っ走ることにする。

・あらすじ
落語家の古今亭三つ葉の元に「話すことが苦手」という人々が集まり、話し方教室として落語を習うという話。三つ葉もまだ落語家として駆け出しなので、自分の話芸にやきもきしている。その上、話し方教室に集まる面々はかなり癖が強い人々で、仲もさほど良くならない。落語を教えることに意味はあるのか、など自問自答しながら各々のトラブルに完全に巻き込まれていく三つ葉、という筋だが、この話の良いところは三つ葉もそんなにうまく物事を解決できるタイプではないところである。人と一緒にうろたえたり、怒ったり、嫌になってふて寝したりすることくらいしかできなくてそれがまたおかしい。ただ、何とかしたいけど何ともならない、という状況に陥ると、人は三つ葉のように行動できないものである。その物語性と客観的な現実味のバランスが絶妙と言っていいだろう。

・主なキャラクター
古今亭三つ葉:主人公。感情がストレートに出るし、行動が潔い割には大抵何かしら後悔している。多分本作のヒロイン。
綾丸:話し方教室に通う人。三つ葉のいとこ。緊張すると吃音が出てしまう。煮え切らない代表だが、一番周りにいそうな性質で嫌いになれない。
十河:話し方教室に通う人。性格がきついので一言一言が痛烈。しかし人前では言葉が全然出てこない。中盤までは絶妙な言動で笑いを演出する。映画では菜々緒がやったらしいと知り、私もなっとくした。
村林:話し方教室に通う人。関西弁のやんちゃ。転校先の小学校でいじめられてるっぽい。このキャラを軸に話を転がすのかと意外に思った。
湯河原:話し方教室に通う人。元プロ野球選手。発する悪口が本当に致命的で、現実でいたらトラブりまくりだろうと思うが、実際作中でもトラブりまくりだった。

・みどころ
おそらく本作は名作ではないが傑作の一つであるように思う。リアクション、発言、描写の全てが計算づくなのだ。タイトル通り「しゃべれどもしゃべれども」人々は本音から遠ざかったり、事態が悪化したりするわけで、そういうギミックも凝っている。キャラクターの造詣は深く、御都合主義的になりすぎない程度に「みんなあんまり良い人ではない」。パーフェクトではない、という塩梅を出すのはパーフェクトなキャラクターを出すより困難を伴うものである。そういう隅々まで配慮が行き届いた話であるため、破綻がない。そして人を笑わせようというサービス精神がところどころに挟まれている。ホスピタリティがすごい。また一方で、リアリティを推す分、物語の起伏は乏しいとも言える。淡々と進み、淡々と終わる。アクロバティックな解決や明るい展望、各登場人物のハッピーエンドなんかを望んでいる場合にはもやもやすることこの上ないだろう。安直さを避ける、という点では『黄色い目の魚』や『一瞬の風になれ』とはまた違った趣のある内容となっている。

・まとめ
諸事情で三つ葉がほおずきを買うシーンが一番側から見て悶絶するシーンだと思い返し、やはり佐藤多佳子三つ葉のような男にも容赦なく『サマータイム』に出てきそうなキザな行動を取らせるのだなあと思った。その後、三つ葉がやっぱりその出来事を思い返して悶絶するシーンがあり、奇妙なシンパシーを感じ、また笑いを誘われる。こういう人間の悲喜こもごもをくすりと笑わせてくれるような話がたくさん詰まっていると思えば、かなりお得感のある作品であった。

読書感想文002:『百鬼夜行シリーズ』京極夏彦

〇ごあいさつ

明けましておめでとうございます、と言う機会に乏しかったのでここでも言ってみた。クリスマスも年末年始も特段のイベントも無く、平坦な毎日が続いている。でもなんか今年はみんなあんまり盛り上がってなかったよね、と思ったりする。きっと2000回くらいやったことだし、飽きたんだろう。

〇今日の感想文:『百鬼夜行シリーズ』京極夏彦(既刊8巻(※短編集抜き))

・経緯

こうして私は京極夏彦の『百鬼夜行シリーズ』を読み終えたのであった。
この一言で大体事足りるのだが、一応何事も万人に理解してもらえるように説明を試みる姿勢が大切である、と私の指導主査も言っていた。まあ、その人自身は何書いても何言ってるのかさっぱりわからなかったんだけれども。
京極夏彦の本は比較的分厚い部類に入る。
特にこの『百鬼夜行シリーズ』と称されるものは「鈍器」とか「隕石」に比喩されるほどの分厚さで、見た目のインパクトは十分である。私はこれを『タテだかヨコだかわからないビフテキ』と喩えることが多い。『男おいどん』のそれである(書いてみてから、誰も知らないかもしれない、と不安が募ってきた。後生だからググってくれ)。最大1300ページくらいになる。当然、寝転びながら読めば腕は攣るし、顔面に落としたら流血も覚悟しなければならない。物理的に読みづらい。私の故・本棚氏の奥底に鎮座して動かざること山の如しであった過去も、むべなるかなという感じが伝わったのではないかと思う。本棚氏が死んだ後、横積みにされた『百鬼夜行シリーズ』を見て私が思ったことは「邪魔だなあ」の一言に尽きる。よし、さっさと読んで捨てちまおうぜ!なあ旦那!!ということになった訳である。

そして読んだ。意欲や気持ちとは裏腹に、それは正しく死闘となった。なぜなら持ち歩くのに不便なので、年末年始の限られた時間を利用して自宅でタイムアタックを仕掛けるしかなかったからである。ゆっくり読めばいいじゃないか、というご意見あるかもしれない。たくさん登場人物が出てくるため、私のメモリ不足から一気に読むのが最適解だったのだ。

・あらすじとシリーズの傾向

前振りが長い(本編のオマージュである)。
百鬼夜行シリーズ』は一応ミステリーのジャンルで間違いないと思う。まず殺人事件が起き、最後にいわゆる探偵役が解決するという流れからして間違いない。古本屋で宮司かつ拝み屋である中禅寺秋彦が憑き物を落とすという形で事件を解決に導く、というところさえ押さえておけばおおむね問題ないだろう。横溝正史リスペクトというところも見逃せないが、設定や小道具はSFめいているしキャラ立ちも現代的なので実はライトノベル(概念)という風説もあるようだ。
事件解決の前にまず妖怪の話が出てくる。犯人とか犯行の動機の比喩とかモチーフに使われる。哲学の話をしてみたり、宗教の話をしてみたりもする。大体、犯人の動機とかトリックの内容を示唆してくれるないようになっているのだが、とにかくその話が長い。300ページくらい話している時もある。それが一番の特徴ということになるだろう。別にこの特徴を取り上げていた訳ではないのだが、西尾維新なんかは京極夏彦空前絶後唯一無二みたいな表現で解説を書いていたように記憶している。だが、読後感としてはぺダンティックさが限りなく荒俣宏帝都物語』などに近い。京極の方が若干、話題が高尚で内容は浅いという印象はある。荒俣は下世話でディープだ。どちらも一長一短あるが、ハマれば荒俣の方が好みではある。

・みどころ

あんまり書くとあんまりにも直截すぎるので、ぼやかしていく。
ミステリーとしてどうか、と言われると率直に表明させてもらうならばトリックで驚くようなことはない。シンプル。森博嗣を読むしかない。動機方面としてはみどころが多い、が、シリーズを通じて表現されているのは、人々の壮大な『勘違い』であると気付くと一気に蹴りが付く。「どうやって殺したのか」「どうして殺したのか」という観点から読むと、あまり満足しないだろう。ただし「犯人は何をどう勘違いしているのだろうか」という問いにはきちんとぴったりはまる解答を用意してくれている。中禅寺よりも先に憑き物の正体に気付くと消化試合になるので(そして消化試合の物理的な量の多さという面からも)ネタバレ等には特に留意して読み進めたい。

・主なキャラクター

中禅寺秋彦:広義の安楽椅子探偵。みんな死んだ後に出てくる。話がすごく長い。妖怪フェチ。
関口巽:小説家。ワトソン君を100倍ダメにしたような人。よく精神不安定になって、「読者に偽証しない」という最低限のルールすら守れなくなってしまう。
榎木津礼二郎:探偵。人の過去が見える、というトンデモ設定持ち。某小説に登場するメタ探偵と同じ役割なのだが、コミュニケーションに難があるので解決には至らない。振り返ると正解を言っていたんだなあ、という人。
木場修太郎:刑事。実はレギュラー陣の中で一番ロジカルな思考をしているのだが、犯人や動機がロジックを多少飛躍させないと導けないので猪突猛進しては降格させられている人、という印象が強い。でもいつも中禅寺の次くらいには役立ってるから超頑張ってほしい。
こうやって書いたけど一番好きなキャラは関口である。

・各話感想

姑獲鳥の夏
記念すべき第一作目。オチで爆笑したのは私だけではない筈だ。メフィスト賞の生みの親だけある。ここで認知ミステリーという新しくもいかがわしい登場を果たした感じはあったが(それじゃあ何でもありじゃねえか、という主張は各方面からあっただろう)、次作の出来が良かったので安心した。
魍魎の匣
美少女・頽廃主義・グロテスクの三拍子揃った幻想小説として読むとバランスが良い。ふうん、やっぱりこれSFでミステリーじゃないんだね、と読者が離れたという話もあるが、これはこれで良いのだろうと私は思う。主として思い切りが良い。サスペンス調ながらも動機の不可解さでミステリーとしての側面も優れている。
狂骨の夢
シリーズの中で一番イメージが付きにくかった。というのも、描写される内容がかなり現実離れしていて(とは言っても前作ほどではないんだな)、誰が誰なのかどこがここなのか、といった困ったさんな内容になっている。当然作者はそれを狙っているのだろうと思うが、如何せん不真面目な読者なのでイメージする前に諦めてしまっていた。
鉄鼠の檻
実はシリーズの中で一番好みである。犯行動機が絶妙なのである。宗教を絡めつつ、分かるようで分からない、そのぎりぎりを巧みに描いていると思う。転じて、人間同士の無理解や、共感の拒絶といったテーマにまで思考が至る。
『絡新婦の理』
やりたいことは分かるんだけれど、それにしても人が死に過ぎているので終盤はコントのようになってしまった(だから感想としては『姑獲鳥の夏』とほぼ同じである)。テーマがね、みんな死んでもらわないと困るわけだし仕方がないと思うけどさ。もっとうまいやり方があったのではないか、というのは登場人物を含め同じ感情になってしまった。
『塗仏の宴(宴の支度・宴の始末)』
こんなに話が取っ散らかってることも珍しいし、オチがユニークすぎるので読書体験として斬新だった。斬新さは比較的肯定的に受け止める方であるが、評価が未だに定まらない。ミステリーとして、とここまで来てこの視点に拘泥するなら失敗だろう。いかがわしい設定の追加や今後の伏線等を散りばめてきたところもあるが、登場人物がとにかく爆発的に増えたのでメモ書きが必要となったのであった。
陰摩羅鬼の瑕
珍しく人がなかなか死なないじゃないか、と思っていたら本編前にたくさん死んでた。全体を通して切ない雰囲気が演出されているけれども、叙述トリックとしては見え見えでよく「この話のトリックはすぐに分かった」とか言われてしまっているのを見るにつけ悲しい気持ちになる。残念ながらすぐに分かる。分かると退屈なので分からなかったフリをするしかない。
邪魅の雫
白状すると手違いで前作よりも先にこちらを読んでしまったが、そこまでダメージは無かった。表題が上手く利いている。概要を構成する運びは面白いが、要素に拘らなかったため、それぞれの人物に追補が必要だったのだろうと短編集を眺めて思ったりする。ちょっと都合が良すぎる、というのが先立つ感想になってしまうか。

・まとめ

今後の展開に期待するくらいにはハマったのだが、次巻はまだ発売されていないらしいので暫くお預けとなるだろう。いずれも変な本ではあるので時間がある人は読むと面白い、かもしれない。筋肉痛にはなると思う。ようやく眼前から60㎝強の灰色の塊が消えて、私の喜びもひとしおである。