the 雑念

葉一用。とりあえず日記

読書感想文004:『デンデラ』佐藤友哉

〇感想文について
冒頭にあるけれどここは一番最後に書いている。振り向けば佐藤友哉の悪口だらけになってしまったので、それなりに反省はしているのだが、佐藤友哉のファンの方なら多分「分かる」と言ってもらえるのではないか、とも思っている。絶版となってから鏡家サーガを読み切った私の根気に免じて許してもらいたい。その中では『エナメルを塗った魂の比重』が一番好きである。

〇今日の感想文:『デンデラ』/佐藤友哉

・経緯
先日、一週間ほど山奥に籠って研修を受けなければならなかったのである。雪深く、最寄りのコンビニまで10kmあると聞き、人間的生活をほとんど諦めることとなった。幸い、電波と温泉は利用可能であるらしいが、それだけでは間が持たないので手持ちの文庫本を何冊か持って行こうということになり、選抜が行われた。その中の一冊が本書である。懇切丁寧に私の状態を描写したのは、この『デンデラ』の舞台が雪山であり、事情を知っている人はこの采配ににやりとするだろうと思ったからである(ここで正直に言うと然程面白くないな、と途中では気付いていた。本当である。消すのが勿体ないと思ったのである。負け惜しみじゃないぞ)。ところで私は推理小説家としての佐藤友哉をほとんど評価していない。バッサリである。これも読んだことの無い人に説明することは難しいのだが「んー、清涼院流水京極夏彦読むね、じゃあ!!」みたいな感じになってしまうのである。メフィスト賞の墓場的存在だ。あんまりこんな風に書くと作者の『クリスマス・テロル』なんかを思い出すのでここら辺にしておこう。一応鏡家サーガは全部読んだのだが、相性が悪いんじゃなかろうかと感じたところもある。サリンジャーの出し方とかは上手なんだけどな、何でそっちに行っちゃうんだろうと思う訳だ。と散々な書きようだが、決して佐藤友哉が凡庸な作家であるということではない。むしろ、衒学的な、ちょっと嫌味なくらい本を読んでいて、それを引用しまくるところなんかは、分かる人には分かるし面白いだろうと思う。結局は『1000の小説とバックベアード』のように純文学への怒りと憧れをない交ぜにしてぶちまけるような作風が一番性に合っているし面白いのだろう。そんなこんなで、『デンデラ』もこれらに負けず劣らず、作者の意欲作かつ、いつもの問題作なのである。

・あらすじ
『お山』に入り死ぬことで極楽浄土へ行けると信じていた斎藤カユは、同じように『お山』に入り死んだと思われていた老婆たちに命を救われ、姥捨て山に捨てられた老婆たちで作られた集落『デンデラ』に連れて来られる。極楽浄土に行けなかったことへの憤りから不適応を起こすカユ、集落の主権を握り、自分たちを捨てた村への復讐を誓う者、『デンデラ』の調和を望む者、茫洋と余生を過ごす者、様々な思惑が渦巻く中、『デンデラ』を羆や伝染病が襲う。と地獄のような話が延々と続く訳だが、語りがですます調なのでまたそのギャップが愉快である。丁寧な文章はかえって残酷さや人の醜さを際立たせる。また、老婆たちの口調の若々しさも最初は慣れないが読み進めていくうちに硬派な無頼たちが話しているように見えてくるので、一体何を読まされているのか段々と分からなくなってくる。が、テーマは明快で、老婆たちに仮託しながらも社会や個人の生きる意味、そしてそれと全く関係なく厳然と存在する自然を巧みに描いているとか言っておけば良いだろう。それにしても、ここで老婆をチョイスしてしまうところが実に佐藤友哉である。ちなみに柳田国男吉村昭の話を知っていると本当ににやりと笑うことができる。香る程度のペダンティックが作家としての成熟の証だろう。

・みどころ
羆である「赤毛」と斎藤カユの対比構造が骨太なので、ともすると目標を見失いがちな本書のガイドとなる。共に与えられた規範に疑いを持たず、思考せずに生きてきた者同士である。カユが初めて自立した思考を働かせるところから物語は始まり、紆余曲折を経て、ただ本能のまま貪るだけだった羆に一歩先んじる形で物語は終わる。圧倒的な強者として描かれる羆を瞬時、老婆が上回るのは何故か。それは、冷めた目で見ればご都合主義のファンタジーとなってしまうだろう。その解をどこに見出すかによって、初めて読者各々の読書体験となるに違いないと思う。後はとにかく老婆しか出ないし、ほぼ全編奇行になるし、新キャラが出てもすぐ死ぬので諦めないで読んでほしい。私は笑いながら読んだ。

・まとめ
全然まとまらないし、相変わらず前書きが長過ぎる。さては反省する気が無いな?
ビジュアル先行で映画のインパクトも大きいが、原作は意外と落ち着いている。これだけ突拍子もない話しながら、勢いで読ませようとせず、肉厚で(重厚で、と言うには何故か憚りがある)、じっとりと嫌な気持ちにもなる。ちなみに、ちょっとした謎解きもあるにはあるのだが、ネタも動機も結構見え見えで入れなきゃいいのに、という気持ちになったことは内緒である。やはり推理ものは向いていないのだろうと再確認したところだ(ただ、本筋という程ではなく、余興程度なら及第点であるからして、本書そのものの価値を損なうものではない)。雪山に向かう予定のある方は旅のお供に是非本書をどうぞ。羆が怖くなることだけは請け負おう。

2/10 先輩がスティック糊取り間違えてリップクリーム茶封筒に塗りつけてるの見て自分はあと10年くらいはクビって言われないだろうなと思った

○美術館について

仕事が閑散期となり、休日に暇を持て余すことが多くなった。とはいえ、業務の性質上長期の休暇を取るわけにもいかず、遠方へ旅行に行けるわけでもないので引きこもりが加速する日々である。近場で時間の潰せそうなところを調べていると、転勤して2年目、ようやく勤務地がいわゆる観光地であることに思い至った。しかしながら、見るべきものは多いが、どうにも関心をそそられない。寺社仏閣に興味がなければ、戦国武将にも興味がない。温泉にも心惹かれない方であるし、強いて言えば食事だが、それこそ遠出をしなくても地元の美味しいものはスーパーに並んでいる。残念ながら、旅先でもホテルに引きこもっている人間であるため、この引きこもりはもっと根の深いものであったようだと観念したところだ。

そんな話を職場の先輩にしていると、先輩曰く「それならば、あそこの美術館に行くと良い」と言う。私は生来、美術館というものに本当に縁がない。いずれにせよ、心揺さぶられないのである。と言うと世の中の大半の人は別に感動したくて美術館に赴くわけではないらしい。先輩の説明するところによると、美術館で何がしかを鑑賞している人の大半は暇潰しであり、呼吸のみを目的としているようである。私が「本当か」と重ねて尋ねると、先輩は「本当だ」と得心して応える。それならば、と思い腰を上げて近場の(とはいえ、自転車で1時間ほど)の美術館に行くことになった。

その美術館は、私でも名前と絵が一つくらいは思い浮かぶような、海外の有名画家の作品が常設されていることが売りであると言う(先輩はそのようなことは一言も言っていなかった)。油絵である。と言っても、私は世の中の有名な画家はみんな油絵を描いているのだろうと思っていたので、油絵以外の絵がどんなものかはわからない。強いて挙げるならば、水彩画と版画は多分わかる。あとはPhotoshopとかSAIになるのだろうか。ここら辺からは全くわからない。

立派な額縁に収まり、一番良いところと思しきところに飾られている絵が、有名なことはかろうじて判別できた。名前も知っていた。思ったより小さいな、という感想以外の感想が出てくるのではないかと思って15秒ほど絵を眺めた。何も出てこなかった。それどころか、『田舎の絵ばかり描いている人だなあ』と思った。メタ認知が残念すぎる、という別の感想を抱きながら、私は他の絵を眺めていく。他の画家の作品も並べられ、どれもこれも羊や森、畑の絵なので、きっと田舎の絵を描く人々展なんだろうと思ったらちゃんといかめしい名前が(忘れたが「~派」のようなもの)付いていた。主題は当たっていたようなので多少満足したが、それだけだった。

昔から芸術と呼ばれる分野のものに滅法弱かったことを思い出し、ベンチに座って途方に暮れた。美術館に縁がないとは書いたものの、自分の琴線に直撃するものが何かあるのではないかという期待が常にあり、誰にも見咎められないように美術鑑賞へ出掛けたことは何度かある。いずれも望みは叶わなかった。きっと先輩の言うとおり、そのようなことはまず生じないのだろうと思う。私の未知への期待が大きすぎるだけなのだ。そう気を取り直し、日本人画家のコーナーもあるというので(そして入館料がもったいなかったので)、そちらへ足を向ける。後半戦は前衛芸術のようなもの、となってくる。そうなると本当にひどい。『丸い』『でかい』『重そう』みたいな感想が、一瞬の『無』を経由して引きずり出されてくる。この感想が自然ではなく不自然から生じている点に、やはりどこか無理があるのだろうと確信する。絵を見ても何も感じられないというのは私の中では本当かもしれない。まあそれは、仏像でも、立派な建物でも、イルミネーションでも同じで、「見る」ということからなかなか情動が引き出されることはない。勝手に逆共感覚と名付けたい。

では逆に、美術鑑賞を実施した日に美味しいものを食べるなどの報酬を与えることで、美術鑑賞を快刺激として定着できないだろうか、などとコーヒーを飲みながら考える。美術鑑賞の本質ではないけれど、茶道でもなんでも最初はまず型から入ると言うではないか。そのうち、食欲と対連合された快刺激の中から美術本質への快刺激に至ることもあるかもしれない(自覚を伴う弁別には困難を伴うだろうが)。我ながら良いアイデアと思ったが、そもそも型が歪みきっているのでダメだろうなと思い直した。人間的欠損をまた大きくするところだった。危ない危ない。

 


○減量について

健康診断で太り気味の指摘を受け、嫌々ながら減量を始めたわけである。太り気味、というのは一体どういう基準なのかわからないが、身長に比して体重が重い、以上のことではないと医者は言う。すなわち、脂質や腹囲といったものは正常の範囲内であるからして、メタボ等には当てはまらないとのことだそうである。

「つまり、どうすればいいんでしょうか」

「これ以上太らない、あるいは正常範囲の中央付近により寄せるよう努力すると将来ももっと生きやすいということだ」

サービスで体脂肪率と骨格筋率を測定してくれるというので測ってみると、体脂肪率は20%前後、骨格筋率は36%前後であると言う。医師曰く「標準なんだけれども、体重を考慮した結果骨太と言える」そうである。

なんだかわかったようなわからなかったような結果だったが、確かに体重が増えてはいるので少なくとも現状維持はしようと思い、それならば減量に舵をとった方が現状維持に最低限至るだろうと考え、減量(仮)が始まった次第である。ややこしい。

自宅に体組成計を常備したことで、学生時代よりも太ましくなっていることが数値で示され、まず憤り、次にどうにかこれが嘘の数値ではないかと疑い、嘆き、最後には現実を受容することができた。キューブラー・ロスの唱えた死の受容と全く同じプロセスである。障害受容等にも応用されることがあり、汎用性の高い仮説であることが再認識された。

それはそうと、結果として全然痩せてない。横ばいである。現状維持である。故に目標は達成できている。総合して許されざることである。

しかしながら、こうして3年かけて蓄積した脂肪やらなんやらを半月程度で清算できると思っているならば考えが甘すぎるのではなかろうか(お前の話だよ)。そう思いつつ、言い聞かせつつ、ある朝突然痩せねえかな、と思いながら眠りにつく、そんな毎日である。

読書感想文003:『しゃべれども しゃべれども』佐藤多佳子

○感想文について
多分飽きると思う、と思いながら始め、もう早々に飽きてきたのだが、記録せずに本を破棄することも惜しい。板挟みである。10番代までは既に読了ストックがあり(読むスピードと書くスピードの差が大きすぎる)、一体私は何をしているだろうかという困惑も生じつつある。人生の縮図である。

○今日の感想文:『しゃべれども しゃべれども』/佐藤多佳子

・経緯
『黄色い目の魚』を読んで以降、私は佐藤多佳子を贔屓することにしている。佐藤多佳子はすごい。かわいい。やんごとない。語彙が和語になってしまうのも仕方のないことなのである。「爽やかな青春小説」のイメージが強いけれども、そうした人の情動を表す描写を満遍なく散りばめる技術に優れている点を取り上げたい(だから今後の展開をすぐ気付いちゃった、となってもその表現の豊かさをたくさん味わうことができる)。故に、本を読み始めた中高生をターゲットとしながらも私のように捻くれた読者も相手にしてくれる尊さの権化のようなところがある。話題のテーマを恋愛ものとしてまとめる癖があるので、「少女漫画的」と評されることもあるが、私は少女漫画も好きなので特段困るようなことはない。今回は貴重な佐藤多佳子ストックを無事にそして少し名残惜しくも消化したということになる。それにしても、佐藤多佳子のように世の中の人にたくさん読まれている本はわざわざ私が感想を書かなくたって良いし、皆さんも読まなくって良いのである。Amazonかどっかのステキなレビューを読めばよろしいのでは?という気持ちが去来しているが、始めてしまったのでこのまま終わりまで突っ走ることにする。

・あらすじ
落語家の古今亭三つ葉の元に「話すことが苦手」という人々が集まり、話し方教室として落語を習うという話。三つ葉もまだ落語家として駆け出しなので、自分の話芸にやきもきしている。その上、話し方教室に集まる面々はかなり癖が強い人々で、仲もさほど良くならない。落語を教えることに意味はあるのか、など自問自答しながら各々のトラブルに完全に巻き込まれていく三つ葉、という筋だが、この話の良いところは三つ葉もそんなにうまく物事を解決できるタイプではないところである。人と一緒にうろたえたり、怒ったり、嫌になってふて寝したりすることくらいしかできなくてそれがまたおかしい。ただ、何とかしたいけど何ともならない、という状況に陥ると、人は三つ葉のように行動できないものである。その物語性と客観的な現実味のバランスが絶妙と言っていいだろう。

・主なキャラクター
古今亭三つ葉:主人公。感情がストレートに出るし、行動が潔い割には大抵何かしら後悔している。多分本作のヒロイン。
綾丸:話し方教室に通う人。三つ葉のいとこ。緊張すると吃音が出てしまう。煮え切らない代表だが、一番周りにいそうな性質で嫌いになれない。
十河:話し方教室に通う人。性格がきついので一言一言が痛烈。しかし人前では言葉が全然出てこない。中盤までは絶妙な言動で笑いを演出する。映画では菜々緒がやったらしいと知り、私もなっとくした。
村林:話し方教室に通う人。関西弁のやんちゃ。転校先の小学校でいじめられてるっぽい。このキャラを軸に話を転がすのかと意外に思った。
湯河原:話し方教室に通う人。元プロ野球選手。発する悪口が本当に致命的で、現実でいたらトラブりまくりだろうと思うが、実際作中でもトラブりまくりだった。

・みどころ
おそらく本作は名作ではないが傑作の一つであるように思う。リアクション、発言、描写の全てが計算づくなのだ。タイトル通り「しゃべれどもしゃべれども」人々は本音から遠ざかったり、事態が悪化したりするわけで、そういうギミックも凝っている。キャラクターの造詣は深く、御都合主義的になりすぎない程度に「みんなあんまり良い人ではない」。パーフェクトではない、という塩梅を出すのはパーフェクトなキャラクターを出すより困難を伴うものである。そういう隅々まで配慮が行き届いた話であるため、破綻がない。そして人を笑わせようというサービス精神がところどころに挟まれている。ホスピタリティがすごい。また一方で、リアリティを推す分、物語の起伏は乏しいとも言える。淡々と進み、淡々と終わる。アクロバティックな解決や明るい展望、各登場人物のハッピーエンドなんかを望んでいる場合にはもやもやすることこの上ないだろう。安直さを避ける、という点では『黄色い目の魚』や『一瞬の風になれ』とはまた違った趣のある内容となっている。

・まとめ
諸事情で三つ葉がほおずきを買うシーンが一番側から見て悶絶するシーンだと思い返し、やはり佐藤多佳子三つ葉のような男にも容赦なく『サマータイム』に出てきそうなキザな行動を取らせるのだなあと思った。その後、三つ葉がやっぱりその出来事を思い返して悶絶するシーンがあり、奇妙なシンパシーを感じ、また笑いを誘われる。こういう人間の悲喜こもごもをくすりと笑わせてくれるような話がたくさん詰まっていると思えば、かなりお得感のある作品であった。

読書感想文002:『百鬼夜行シリーズ』京極夏彦

〇ごあいさつ

明けましておめでとうございます、と言う機会に乏しかったのでここでも言ってみた。クリスマスも年末年始も特段のイベントも無く、平坦な毎日が続いている。でもなんか今年はみんなあんまり盛り上がってなかったよね、と思ったりする。きっと2000回くらいやったことだし、飽きたんだろう。

〇今日の感想文:『百鬼夜行シリーズ』京極夏彦(既刊8巻(※短編集抜き))

・経緯

こうして私は京極夏彦の『百鬼夜行シリーズ』を読み終えたのであった。
この一言で大体事足りるのだが、一応何事も万人に理解してもらえるように説明を試みる姿勢が大切である、と私の指導主査も言っていた。まあ、その人自身は何書いても何言ってるのかさっぱりわからなかったんだけれども。
京極夏彦の本は比較的分厚い部類に入る。
特にこの『百鬼夜行シリーズ』と称されるものは「鈍器」とか「隕石」に比喩されるほどの分厚さで、見た目のインパクトは十分である。私はこれを『タテだかヨコだかわからないビフテキ』と喩えることが多い。『男おいどん』のそれである(書いてみてから、誰も知らないかもしれない、と不安が募ってきた。後生だからググってくれ)。最大1300ページくらいになる。当然、寝転びながら読めば腕は攣るし、顔面に落としたら流血も覚悟しなければならない。物理的に読みづらい。私の故・本棚氏の奥底に鎮座して動かざること山の如しであった過去も、むべなるかなという感じが伝わったのではないかと思う。本棚氏が死んだ後、横積みにされた『百鬼夜行シリーズ』を見て私が思ったことは「邪魔だなあ」の一言に尽きる。よし、さっさと読んで捨てちまおうぜ!なあ旦那!!ということになった訳である。

そして読んだ。意欲や気持ちとは裏腹に、それは正しく死闘となった。なぜなら持ち歩くのに不便なので、年末年始の限られた時間を利用して自宅でタイムアタックを仕掛けるしかなかったからである。ゆっくり読めばいいじゃないか、というご意見あるかもしれない。たくさん登場人物が出てくるため、私のメモリ不足から一気に読むのが最適解だったのだ。

・あらすじとシリーズの傾向

前振りが長い(本編のオマージュである)。
百鬼夜行シリーズ』は一応ミステリーのジャンルで間違いないと思う。まず殺人事件が起き、最後にいわゆる探偵役が解決するという流れからして間違いない。古本屋で宮司かつ拝み屋である中禅寺秋彦が憑き物を落とすという形で事件を解決に導く、というところさえ押さえておけばおおむね問題ないだろう。横溝正史リスペクトというところも見逃せないが、設定や小道具はSFめいているしキャラ立ちも現代的なので実はライトノベル(概念)という風説もあるようだ。
事件解決の前にまず妖怪の話が出てくる。犯人とか犯行の動機の比喩とかモチーフに使われる。哲学の話をしてみたり、宗教の話をしてみたりもする。大体、犯人の動機とかトリックの内容を示唆してくれるないようになっているのだが、とにかくその話が長い。300ページくらい話している時もある。それが一番の特徴ということになるだろう。別にこの特徴を取り上げていた訳ではないのだが、西尾維新なんかは京極夏彦空前絶後唯一無二みたいな表現で解説を書いていたように記憶している。だが、読後感としてはぺダンティックさが限りなく荒俣宏帝都物語』などに近い。京極の方が若干、話題が高尚で内容は浅いという印象はある。荒俣は下世話でディープだ。どちらも一長一短あるが、ハマれば荒俣の方が好みではある。

・みどころ

あんまり書くとあんまりにも直截すぎるので、ぼやかしていく。
ミステリーとしてどうか、と言われると率直に表明させてもらうならばトリックで驚くようなことはない。シンプル。森博嗣を読むしかない。動機方面としてはみどころが多い、が、シリーズを通じて表現されているのは、人々の壮大な『勘違い』であると気付くと一気に蹴りが付く。「どうやって殺したのか」「どうして殺したのか」という観点から読むと、あまり満足しないだろう。ただし「犯人は何をどう勘違いしているのだろうか」という問いにはきちんとぴったりはまる解答を用意してくれている。中禅寺よりも先に憑き物の正体に気付くと消化試合になるので(そして消化試合の物理的な量の多さという面からも)ネタバレ等には特に留意して読み進めたい。

・主なキャラクター

中禅寺秋彦:広義の安楽椅子探偵。みんな死んだ後に出てくる。話がすごく長い。妖怪フェチ。
関口巽:小説家。ワトソン君を100倍ダメにしたような人。よく精神不安定になって、「読者に偽証しない」という最低限のルールすら守れなくなってしまう。
榎木津礼二郎:探偵。人の過去が見える、というトンデモ設定持ち。某小説に登場するメタ探偵と同じ役割なのだが、コミュニケーションに難があるので解決には至らない。振り返ると正解を言っていたんだなあ、という人。
木場修太郎:刑事。実はレギュラー陣の中で一番ロジカルな思考をしているのだが、犯人や動機がロジックを多少飛躍させないと導けないので猪突猛進しては降格させられている人、という印象が強い。でもいつも中禅寺の次くらいには役立ってるから超頑張ってほしい。
こうやって書いたけど一番好きなキャラは関口である。

・各話感想

姑獲鳥の夏
記念すべき第一作目。オチで爆笑したのは私だけではない筈だ。メフィスト賞の生みの親だけある。ここで認知ミステリーという新しくもいかがわしい登場を果たした感じはあったが(それじゃあ何でもありじゃねえか、という主張は各方面からあっただろう)、次作の出来が良かったので安心した。
魍魎の匣
美少女・頽廃主義・グロテスクの三拍子揃った幻想小説として読むとバランスが良い。ふうん、やっぱりこれSFでミステリーじゃないんだね、と読者が離れたという話もあるが、これはこれで良いのだろうと私は思う。主として思い切りが良い。サスペンス調ながらも動機の不可解さでミステリーとしての側面も優れている。
狂骨の夢
シリーズの中で一番イメージが付きにくかった。というのも、描写される内容がかなり現実離れしていて(とは言っても前作ほどではないんだな)、誰が誰なのかどこがここなのか、といった困ったさんな内容になっている。当然作者はそれを狙っているのだろうと思うが、如何せん不真面目な読者なのでイメージする前に諦めてしまっていた。
鉄鼠の檻
実はシリーズの中で一番好みである。犯行動機が絶妙なのである。宗教を絡めつつ、分かるようで分からない、そのぎりぎりを巧みに描いていると思う。転じて、人間同士の無理解や、共感の拒絶といったテーマにまで思考が至る。
『絡新婦の理』
やりたいことは分かるんだけれど、それにしても人が死に過ぎているので終盤はコントのようになってしまった(だから感想としては『姑獲鳥の夏』とほぼ同じである)。テーマがね、みんな死んでもらわないと困るわけだし仕方がないと思うけどさ。もっとうまいやり方があったのではないか、というのは登場人物を含め同じ感情になってしまった。
『塗仏の宴(宴の支度・宴の始末)』
こんなに話が取っ散らかってることも珍しいし、オチがユニークすぎるので読書体験として斬新だった。斬新さは比較的肯定的に受け止める方であるが、評価が未だに定まらない。ミステリーとして、とここまで来てこの視点に拘泥するなら失敗だろう。いかがわしい設定の追加や今後の伏線等を散りばめてきたところもあるが、登場人物がとにかく爆発的に増えたのでメモ書きが必要となったのであった。
陰摩羅鬼の瑕
珍しく人がなかなか死なないじゃないか、と思っていたら本編前にたくさん死んでた。全体を通して切ない雰囲気が演出されているけれども、叙述トリックとしては見え見えでよく「この話のトリックはすぐに分かった」とか言われてしまっているのを見るにつけ悲しい気持ちになる。残念ながらすぐに分かる。分かると退屈なので分からなかったフリをするしかない。
邪魅の雫
白状すると手違いで前作よりも先にこちらを読んでしまったが、そこまでダメージは無かった。表題が上手く利いている。概要を構成する運びは面白いが、要素に拘らなかったため、それぞれの人物に追補が必要だったのだろうと短編集を眺めて思ったりする。ちょっと都合が良すぎる、というのが先立つ感想になってしまうか。

・まとめ

今後の展開に期待するくらいにはハマったのだが、次巻はまだ発売されていないらしいので暫くお預けとなるだろう。いずれも変な本ではあるので時間がある人は読むと面白い、かもしれない。筋肉痛にはなると思う。ようやく眼前から60㎝強の灰色の塊が消えて、私の喜びもひとしおである。

読書感想文001:『岳』石塚真一

〇ここまでのあらすじ
本が多すぎるので捨てることになったが、いざ捨てる段になってごねたのであった。

〇弟の提案
「感想文をしたためてから本を捨てればよいのではないか」と弟は言った。喪の作業(モーニング・ワーク)である。「幸いにして貴方は文章を作成する仕事に就いていると言えるし、文章を作成する能力も平均程度あるではないか」。しかし私は基本的に良いものを見ると心的に涙を流しながら「尊い……」としか言えなくなる古のオタクなので、それは難しいのであった(例えば、チャグムが国を想って海に飛び込んだシーンについて、人は『尊い』以外の感想を抱く事が出来るのだろうか(百歩譲って『気高い』ならあるかもしれない))。

〇枠組
読了したものについてしたためる訳だから、どうしてもネタバレは含まれる。また、私の人生の延長上に読書は位置するので、どうしてその話が気に入ったのかなど、私の人生の経過と大きく相関することもあり、日記たるブログにぶん投げるのがよかろうと思う。項目・文字数なんかは自由度を大きくした方が文章を書く際に抵抗感が少ない。表題にほんのタイトルとナンバリングは付けておこうと思う。

〇今日の感想文:『岳』石塚真一(全18巻)
・経緯
漫画なんかい、という気持ちはある。分かる。私は先日から小説(それも文庫本)の話ばかりしていたのだが、漫画本も実家に400冊近くあり、文庫本と合わせて1500冊近い冊数になってしまっているのでこちらの処分も急務なのである。そうした事情は置いといて、私の友人が長野県松本市で働いているのだが、『岳』の舞台も長野県松本市(を含む北アルプスの山々)なので、転勤の際に折角だから読むのが良いのでは、と推薦した経緯がある。先日2年ぶりに友人と話す機会があり、「まだ読んでいない」と言うので一頻り叱責し、年末に貸し与える約束をしたところだ。廃棄チャンスが巡ってきたことに乗じて改めて読み返し、感想文の練習台に仕立て上げようとしている訳である。

・あらすじ
思いの丈を自由にしたためるにしても、あらすじくらいは付けなくてはいけないのではないかと思う。基本的には、北アルプスで救助ボランティアをしている島崎三歩という山男が遭難者を助けまくる話だ。1~2話完結なのでこの要点さえ押さえていれば終盤でなければどこから読んでも困ることはあんまりない。三歩はものすごく明るい人柄で山でのトラブルを難なくこなしていく役なので、初読の際はその超人ぶりに若干辟易したものだ。大学時代に先輩に勧められたのがきっかけだったのだが、「こういうものを面白いと思うようになると、感性がおじさんになったということなのだろうな」と思った覚えがある。今もまあ、そこまで強くは思わないが、「ほらどうだ!これが決め台詞だぜ!!」みたいなものはやっぱり目に付くとも言える。

・みどころ
書いて改めて気付き始めたが、私は何かを手放しで褒める、ということができない性質のようだ(さもなくば『尊い……』になる。勿論、『岳』も尊い部類の物語だ。念のため)。仕方ない。こうして褒めるポイントを項目立てて紹介する必要がありそうである。私が取り上げたいのは『岳』のフィクション性が三歩のパーソナリティとスペックにのみ集中している点である。要するに、三歩以外はみんな普通の人だし、山で生じる事故もありふれたものなのだ。だから、三歩がいかに優れていても、事故者が死ぬときは死ぬし、救いのない話も(数自体は少ないが)ある。だから、読後感としては僕の中では『ブラックジャック』とかに近い。三歩が根明なのでさほど陰鬱な気持ちにはならないが、その分、「三歩が動揺した時」については読者もかなり心的に揺さぶられることが多いのではないだろうか。そうした緩急や展開については(多少無理はある時はあるものの)、特筆に値すると思う。また、一番しんどい仕事をしている三歩が大体笑って何でも許してくれるので、うっかり読んでいる私も許された気持ちになる。ささやかだが重要で、この物語全体の魅力である。

・印象的なシーン
終盤の物語開始の合図となった『はじまり』。レギュラー扱いのキャラクターが落石に巻き込まれるシーンだったのだが、とにかく絵を見て寒さや暗さ、恐怖が伝わる話で、そうした感覚に訴えかける漫画は稀有である。また、三歩が狼狽する場面で絶望感はひとしおなのだ。私は自分が思ったよりも三歩に依存していたのだなあとそこで気付いた。読者が無意識の内に期待しているということは、物語に上手く没入している証左である。そうして、やはり『岳』が優れた物語であることを再認識させられた次第だ。

・最終回近辺について
『岳』は最終回周りで賛否の別れた作品である。簡単に説明すると、『三歩は山岳救助のボランティアを辞め、再び登山家としてエベレスト(の隣の山)にアプローチを始めた。その後、エベレストにて遭難したグループの救助に当たり、かなり無理な行程を自ら歩んだことで、消息不明になってしまう』というものである。このようなタイプの話が終わるには順当であると言わざるを得ないが、「十中八九死んだのだろうけどもしかしたらどこかで……」という余韻も残しており、様式美がある。私は当時「ええー、三歩やっぱり死んじゃったのか」とちょっとしょんぼりしたのだが、ちょっとしょんぼりで済まなかった人々からは最終回に低評価(例えば、「三歩の行動はこれまでと矛盾している」「最終話辺りで話を畳むのに急ぎ過ぎた」などの評価)が与えられているようである(個人的には、話を畳むのに急ぎ過ぎたのはあるだろうと思う)。先日読み返したところ、(折角だから『岳』の肩を持つとという留保付きで)、私は『岳』の中で登山者が死んでしまっても、やはりどこか他人事だったのだろうなと思ったわけである。フィクションだし(それがフィクションの良いところである)、1~2話の付き合いではさほど情動は動かない。ただし、全編通して関与した三歩は既に私の中で他人ではないくらいには関係が築かれているのだろう。最終回は特別だし、残念に思う気持ちは強い。ただ、出来事だけを取り上げれば、『岳』の中で描かれ続けてきたエピソードと変わりは無いのだ。要するに、「三歩が死んでしまうことも、十分物語の枠内で生じ得ると何度も説明されてきた状態」であるにも拘わらず、私のような読者には最終回だけがひどく理不尽に見えるのである。現実であれば、それはきっとこの比ではないが、現実ではそうしたことが容易に起こる。メタフィクションとして、なんて言い方は『岳』には最もそぐわない言い回しであるが、大事な人、親しい友人や頼りにしている人物を喪失するという経験として、白眉である。

〇感想文の感想
意外と時間が掛かるし、あんまり魅力的に書けないのは忸怩たる思いだ(しかし嘘を書く訳にもいかないので悩ましい)。三歩を「イイヤツ」と認識するかどうかがきっと物語を楽しめる分水嶺になるんだろうな、と思う(こうして枠外に本質を垂れ流すから性質が悪い)。私はツンデレなのだ、と大昔に後輩から指摘されたことがあるのを思い出した(私は現在でもそれを認めない)。

11/10 幼年期と本棚の終わり

そういえばはてなブログをやっていたのだと思い出す。前回のエントリーを見て、月日は早く、残酷なものである。などと思う。

 

最近とみに本を読むようになった。捨てたいのである。
これくらい圧縮しても物事が十全に伝われば良いなと思う。というのも、これ以上言葉を埋め合わせても、互いの労力が使い果たされるだけだからである。伝達と理解の間には『光の速度に近づくほど膨大なエネルギーを必要とする』ことと近似する方程式があるに違いない。畢竟、伝達のエネルギーを増大させても完全な相互理解には至らないものだ。
何の話だったか。本の話だった。
私は本を読むのが好きだ。幼い頃からの逃避癖の賜物である。エッセイや専門書も勿論嗜むが、フィクションを読むことが大半となる。小説はいつでも私に現実からの逃げ道を用意してくれるから、必ず文庫本を2〜3冊携帯するようにしている。私はフィクションを愛している。これまでも、(そしておそらく)これからも。
ところが、本の困ったところは嵩張るところである(この一文には"ところ"が多く含まれているところがある)。1冊1センチ程度の厚みであったとしても、1000冊あれば10mになってしまう。すなわち、私と同じくらいの身長の山が6つは少なくとも積み上げられているわけだ。それを持ち続けることはコスト・運用の面で合理的でないという結論は8年前に出ている。捨てる本を選べ、ということになる。繰り返しになるが、私はフィクションを愛しているため、これらを捨てることを放擲してきた。しかしながら、実家の本棚が崩壊したという一報を受け、私はこの蔵書を少しずつ処分することになったのである。
当然、一度読み、比較的愛していないフィクションから捨てることになる(それだって大きな苦痛を伴う)。私の愛すべき賢い弟はこう言った。「文庫本の背表紙を切り落とし、PDFにすれば良いのではないか」。残念ながら私の中身のソフトウェアは電子書籍に対応していない(目がチカチカするし、何より電源がないとフィクションの世界に行けないなんてとんでもない)。この案は却下されることとなった。
そうしてふと気付かされた。「未読のフィクションについては、捨てることができない」。フィクションの出来を評価していないからだ。故に急いで最近本を読んでいる、ということになる(冒頭の文章の説明終わり)。
あと300冊強読めば手持ちの文庫本はほとんど読んだことになるため、このペースでいけば3年以内には概ね本を捨て切るることができるだろうと踏んでいる。ただしそれは、私がこれから文庫本を新たに買い足さなければ、という留保が付く。
当然、そんなことできるわけない。
私にとって本とはきっと、タバコやコーヒー、もしかしたらドラッグのように依存性の強いものなのだろう(依存性の定義について議論するつもりはない。言葉の綾というものを許容してもらわなくてはならない)。当然、古本屋に足を運べば2〜3冊は購入しているし、新刊で欲しい本だってたまにはある(主としてハヤカワ文庫になる。比較的さっさと絶版してしまうため)。手持ちの文庫本を読み終わってしまった時や旅行先で、緊急に購入することもある。私は1秒だって早く、そして長く、フィクションの世界に没入したいのだ。
弟が私のことを「書痴」と言うのもむべなるかな(しかし私はもっとその形容が似合う人物を、片手では収まりきらないほど知っている。弟のSF棚の8割は私が買ったハヤカワ文庫であることを、きっと彼は忘れているのだろう)。とにかく私は既読の本を捨てている。『深海のYrr』を捨て、『トップラン』を捨て、『六枚のとんかつ』を捨て、『姉飼』を捨て、『第四解剖室』を捨て、『バスカヴィル家の犬(新潮文庫)』を捨て、『月の影 影の海(講談社文庫)』を捨て、『家族狩り』を捨て、『狐笛の彼方』を捨て、『トップラン&ランド完』を捨てた。他にもたくさん捨てている。どのような本であっても、身を削るような思いだ(清涼院流水であってもそうだ。本当に)。
私を悩ませるのは『ブギーポップシリーズ』なんかである。新刊を追ってはいないが、まとめて読む時に既巻がないと困る、かもしれない。ライトノベルの邪悪なところである。思い切って『心霊探偵八雲』なんかは捨てた。シリーズものは管理も記憶も困難を伴うし、先達の『グイン・サーガ』を忘れてはいけない。未完と言えば『愚者と愚者』も頭によぎる。『屍者の帝国』みたいに続きを誰か書いてくれないだろうか。それとも満足いかないだろうから敢えてこのままの方が良いかもしれない。などと悶々とする。そして捨てられない本どもがまだうず高く堆積している状態にある。


本を捨てる試みはまだ始まったばかりで、遅々として進まない。そうした現実から目を背けるために、私は今日も本を読むのであった。

3/6 【感想文】シェイプ・オブ・ウォーター

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※そういうブログじゃない。

シェイプ・オブ・ウォーターを観た
 私はギレルモ監督をものすごく贔屓にしているので、シェイプ・オブ・ウォーターも無論楽しかった。そうした気持ちをしたためる他ないと思い、このようにメモ帳を起動している次第である。良いと思ったものを良いと伝える練習としたい。まあでも一言で言うならば、シェイプ・オブ・ウォーターはいいぞ。

○観る前に知っておいた方が良いかもしれない情報
 ・「同監督制作の『パンズ・ラビリンス』と比べると『シェイプ・オブ・ウォーター』の鬱度は0.4パンズくらいだから指標としてほしい」という情報をTwitterで見かけたが大体そんな感じ。しかしグロテスクさや暴力的なシーンは引けを取らないので、ビジュアル的に痛い描写が苦手な人は注意。
 ・R15指定なので性描写も普通にある。誰かと一緒に観るなら気まずくならないよう気をつけたい。
 ・これに付随して、日本での上映ではボカシが入っている。
  ・1シーンだけ、2~3秒くらい。あってもなくても大して物語に影響しないが、気を削がれるかといえば削がれないこともない。

○ざっくりとした総評について
 ・モチーフが山のように多い:元ネタは知らなくとも楽しめるけれど、知ってるとそれはそれで目新しさが減じる。
 ・ストーリーはシンプル:良くも悪くも大筋で驚くような展開は無い。細かい演出や表現技法で楽しむ割合が大きい。
 ・キャラクターの作り込みは深い:キャラクターに関する何故については作中で答えが示唆されていることが多く、想像の余地も広い。
 ・暴力描写はやや過激:苦手な人は本当にダメとなりそうなくらいには暴力描写がある。人に痛みを想起させる表現は優れている。

※以下諸々のネタバレあり

○テーマについて(『美女と野獣』と『シェイプ・オブ・ウォーター』)
 あらかじめ告白しておくと、私は『美女と野獣』が好きだ。おそらくそれは、『美女と野獣』を信頼と忍耐、そして寛容がテーマの物語だと解釈しているからだと思う。ラブストーリーになるのは最後だけで、それまでの過程に心を動かされるから好きなのである。例えば、ベルが父親の病のために一時帰郷したいと申し出た時、野獣はそれを認める。野獣はベルが二度と戻らなくてもそれでも良いと思ったのかもしれないし、戻ってきてくれると信じたのかもしれない。それでいて、ベルは野獣の城に戻り、彼の信頼に応えようとする。人と関係を築こうとする時に、相手を信頼し、相手を許すという基本構造が端的に、ひょっとすると素朴に描かれていて好きなのだ。
 『シェイプ・オブ・ウォーター』は『美女と野獣』の構造を模してはいるが、似て非なる主張が隠されている。もちろん、オマージュや対立項となるものは存在していて、その違いを感じるのも面白い。監督自身がインタビューで述べているとおり、理想的で清廉な美女と唖者で中年期に差し掛かった主人公や、乱暴だが会話に遜色なく豊かな知性も有していて、最後には美男に戻ることのできる野獣と、獰猛で生き物を貪り食い、コミュニケーションは僅かにしかできない半魚人の対比は残酷で、この映画がいかに捻くれているかが分かる。ただし、ミュージカルのシーンは本当に美しく、想像の中で伸びやかに歌う主人公を見て心が動かされない人はこの映画は向いていない。
 タイトルにも示されているとおり、この物語のテーマは非定型の愛だ。それぞれの登場人物が、それぞれの信念の下に行動する様は理解に苦しむものもある。ただし、よく考えれば──各人が各々の考える愛に基づいて行動していると考えれば、それほど無理も生じない。話すことのできない主人公は、半魚人が「ありのままの自分を見てくれる」として助けようとする。それはきっと、主人公の寂しさを拭おうとするだけの行為で、一般的な愛の概念とは異なるのではないだろうか。しかし、彼女にとってはそれこそが愛で、のめり込むには十分なのである。それだけの孤独を、彼女の切迫した表情やもどかしい手話で表現することに成功している。他にも、黒人の同僚はどうして主人公を最後まで庇おうとするのか。隣人の画家がまずいキーライムのパイを大量に冷蔵庫に隠している理由は?悪役のストリックランドでさえも、妻の「キャデラックが欲しい」という言葉に従って車屋まで足を運んでいる。この映画のすごいところは、ごく自然に、さりげなく登場人物それぞれの信念を無理なく描ききっているところにある。一方、それぞれが愛を(もしくは信念を)構築する過程にそれほど重心を置いていないとも言え、ここで1960年代という(欧米圏にとってはテンプレートなイメージを援用できる)時代背景を設定することでキャラクターの飛躍や異常性が生じてしまう負担を減じている(が、日本人にはちょっと馴染みが薄いということも付記しておきたい)。

○シナリオについて(『パンズ・ラビリンス』と『シェイプ・オブ・ウォーター』)
 『パンズ・ラビリンス』は評価の分かれる作品であった。というのも、主人公のオフェリアが迷い込む幻想的な世界を彼女の空想と捉えるか、それとも実在のものと捉えるか観客に委ねられており、それが物語の結末の印象を大きく左右するからである。現実がファンタジーを、ファンタジーが現実を互いに侵襲していく有様は秀逸で、その分、物語の複雑さが増しているという感も否めない。他方、『シェイプ・オブ・ウォーター』はかなり分かりやすく配慮されており、想像を上回るような展開はそれほどなく、平たく言えば盛り上がりには欠ける(ご都合主義と言われればそれまでというところもある)。ただし、これは寓話・大人のための御伽噺であるとしていることから、観劇としての側面が強いことも挙げておきたい。おそらく観劇者に求められているのは感情移入より手前の理解程度なのだろう。『美女と野獣』のように王道路線で勝負する前提があったとするならば、物語の展開で悪目立ちすることを避けようとしたのかもしれない。いずれにせよ、『パンズ・ラビリンス』のような祈るような気持ちで映画を見ることはない(これが0.4パンズの由来であると確信している)。ただし、台詞にはかなり気を配って制作されたところがあり、これは数回見なければちゃんとしたことは言えないだろうとも思う(例えば、半魚人を『彼(he)』と表現したのはおそらく主人公だけだと思うとか)。配色についてもこだわりがあるようで(例えば、主人公の心情と服の色、もしくは緑と赤の対比)、注意力をきちんと割けば(多少は)奥行きのあるシナリオだと感じている。