【私のことについて】
自分語りをすることについて、それほど良い印象を持っていない。自分の来歴がそれほど面白いものだと思わないからだ。性的な志向もこんな感じであるし、実際、個人的な情報が割れるのも好ましくないので、他者と楽しくコミュニケーションを取れる程度の情報開示で楽しくやってきたし、これからもそうだと思う。しかしながら、簡単な概要を付けておくことは吝かではない。というのも、片方は勿論、私自身の心の整理のためであるし、もう片方は、同好の士に対して瑣末ながら経験談を寄稿したいと思ったからだ。後者の方は取って付けたような理由である。かと言って、私がいま不安定な状況にあるのかと聞かれれば、決してそうではない。要するに、すべての自分語りがそうであるように、暇つぶしのようなものなのである。
私はごく一般的な家庭の長男として生を受けた。下に聡明な弟がいる。母親からは心配性と合理主義を、父親からは不器用と負けず嫌いを受け継いだ。母親は簡単に言えば様々なコンプレックスを抱えた人でありながら、コンプレックスと折り合いをつけて生きる強靭さを持った人である。一方、父親はほとんど家に帰ってこない、平成初期から中期までのサラリーマン像を絵に描いたような人である。
母親が持つたくさんのコンプレックスの中に、学歴コンプレックスがあった。母親は地元の高校を卒業したあと、すぐに派遣事務を始めたのであった。私は母親が極めて合理主義者であることを知っているので、おそらく仕事はすこぶるできたのではないかと思う。しかし、彼女は自分の出自を恥じていた。
こんなエピソードがある。私が中学生の頃、勉強がとても出来る友人がいた。その友人は毎晩22時まで塾に通う努力家であったのだが、そのときのテストは偶々、私よりも点数が低かった。私は当時からぼんやりした性質を遺憾なく発揮していたのだが、国語だけは得意だったのである。平たく言えば、読書だけが私の拠り所であったからだ。彼は何もしない、授業中に居眠りをする同窓生を快く思わなかったのだろう。もしくは、両親からどうして1位ではないのか尋ねられることになりそうだったのかもしれない。いずれにせよ、彼は私にどのように勉強をしているのか聞いた。私は私なりに勉強をしていたのだが、どちらかと言えば詰め込み式で短期決戦型である。そのように説明したが、彼は納得しなかった。そのあと、多分、親が勉強を教えてくれるのだろうときっと彼は思ったのだ。私にこんなことを尋ねる。「親御さんってどこの大学出身なの?」。私は母親が地元の高卒であること、父親が名も知れぬ辺境の大卒であることを伝えた。聡明な彼はそのあと、彼自身の非常識さに慄いたのだろう。気まずそうに彼の両親の出身大学を教えてくれた。誰もが名前を知っているような、国立の大学であった。私は呑気なので、ふうんそうなの、くらいにしか思わなかった。私は帰宅して、その顛末を母親に話した。友人が悔しがっていた様子をそれとなく、それでいて少し得意げな気持ちで伝えたかったのである。母親は私を叱責して、そのあとぼろぼろと涙を流した。「恥ずかしいじゃない」。普段は何があっても動じない母親が、痛く傷付いたのだと知って私は狼狽えた。そのくらい、彼女の学歴コンプレックスは深く、それでいて巧妙に隠匿されていたのだと知った。その後、私は成長するにつれて洞察力を身につけ、母親がコンプレックスを抱えながら、非常に神経を使って私と弟を育て上げたことが分かった。高卒だからちゃんと子供を育てられないと思われたくないとか、良い教育を与えられないなどと思われないようにしていた。私は母親の行動は理解できたが、学歴といった、そのようなことに拘泥する気持ちは理解できなかった。それは中学時代のその一件からあまり変わってはいない。
母親はたぶん、大学に行きたかったのだろうけれど、母親の生家にそれほど余裕がなかったことは後に知った。弟と2人で話した時に、彼は「それなら奨学金を借りればよかったんだ」と言った。私はそうは思わなかった。金銭がなければ進学という道に踏み出す勇気も得られない。着想、あるいは実行に至るまでの距離が持たざる者は長すぎるのだと感じたのだ。母親が大学に行かず、現在に至るまでコンプレックスを抱えているのは、彼女だけの責任ではないとしたい。私はそう思った。そうして、母親にとって私達子供は大変な重荷であったに違いなかった。O-157が流行れば、彼女は専門書を買って熟読し、私達に専門的な手洗いの仕方を徹底させた。子供をうっかり死なせてしまう、馬鹿な母親には絶対になるわけにはいかない。そういった執念が、彼女を摩耗させていたことに疑いはない。私が幼い頃、母親はよくストレス性と思われる体調不良を頻発させていた。そんなことをよく覚えている。
彼女は自分から外に出ようと思わない方なので、吝嗇家でもある。これも私達を大学に通わせるなど、家計のやりくりに努力した結果だと思われる。そういったことに、私はつい数年前ようやく気が付いたのだった。それから私は母親を誘って、美味しいものを食べたり綺麗なものを見たりしようと彼女を年に数回は家から連れ出すようになった。彼女は今年49歳になる。私は26歳になるので、私の年齢にしては比較的若い親であるように思う。耄碌する前に、何かしら楽しいことをしてもらいたい。私は彼女のこれまでの人生における過緊張に報いたいと思っているのだ。
父親について語るべきことはあまりない。というのも、関係が悪かった訳ではなく、単に接触する時間があまりにも短かったためだ。彼は夜中の1時に帰ってきて、朝の6時に家を出る生活を私が大学院に入るまで続けていた。寡黙で、何を考えているか分からない人だった。高校生のあたりで、私は父親が何を考えているか分からないのではなく、何も考えていないのだと気が付いた。母親が子供の養育に非常な神経を使っている際に、父親は家に介入することはなく、ただ労働し、家計を回すための一種の機構とすっかり成り果てていたことに気が付いたのである。
こんなエピソードがある。高校3年生のときに、三者面談を行なった。進路にまつわる話をするためである。母親は仕事の都合がつかなかったので、代わりに父親が来校することとなった。そのことに父親はかなり難色を示していた。私の進路について興味がないから行きたくないとまで言っていた。母親は激怒し、持ち前の論理的な正しさで父親を攻撃した。父親は疲弊し、不承不承頷いて三者面談に来ることになったのである。私はそれをぼんやりと聞いていたが、父親は私の進路に興味がないのではなく、彼が思いの外、私のことを何も知らないことに恐怖したのだと理解していたので腹は立たなかった。「御家庭での様子はどうですか?」などと担任から尋ねられて、狼狽する父親が目に浮かんだ。それはとても可哀想なことのように思えたのである。当日、父親は朝から挙動不審であった。早朝にPCで私の高校のホームページをこっそり開いているところを目撃した。私は何も見なかったフリをしてあげた。三者面談が始まると、父親が恐れていた質問がいくつか担任から投げかけられる。「家ではどういったご様子ですか?」。父親は「いやあ、こいつはいつもゴロゴロしてますね」と答えた。私は父親の話に合わせて「えへへ、そうなんですよ」というようなことを答えた。彼は困ったときに身内を馬鹿にしたような発言をしてその場をしのぐ悪癖があった。私はそれを熟知していたので、それほど怒りも湧かなかった。むしろ彼がこの20分を無事乗り切れるよう、隣で祈るような気持ちであった。そうして無難に会話を終え、本題の進路相談に差し掛かった。母親に話したように、本当に私の進路について興味がないようであれば、「本人の自主性に任せています」というように言って欲しい旨は三者面談の前に伝えておいた。父親は憮然とした表情で「わかった」とは言っていた。三者面談で、父親は担任から話を振られると、目一杯時間を掛けて、最後に絞り出すように、「本人の自主性に任せているので」と言った。私は私が言った通りに父親が答えたことに、密かに満足していた。また、それを答える前に逡巡したことも分かっていた。私は自分の偏差値から算出されるような大学の、ワンランク下の大学を受験するつもりだと話した。担任は意外だという表情で、私の偏差値と同等、あるいはそれ以上のところも挑戦として受けて見てはどうかと尋ねた。「お父様はどう思われますか?」と担任が訊くと、父親はまたたっぷり時間を掛けて「わかりません」と答えた。父親は私がどれくらいの学力であるか、そのときようやく理解したところであったから、分からないのも当然だった。父親は帰り際、無言で私にアイスを買ってくれた。お礼ということは言葉を交わさなくても勿論分かるし、彼は自分からありがとうなんていう言葉を吐けない人間であった。そうして、私と父親の関係性はこれ以上良くも悪くもならないだろうという確信だけが私に残った。
その後、私は大学に進学し、大学院に進学し、臨床心理学を専攻することになる。私が研究や心理援助の駆け出し的な存在になり、多忙を極める最中、唐突に父親が私と話をしたいと言った。私はおそらく2人だけで話したいことなのだろうと思い、そうして彼の精神的な病理に思い至った。自分は鬱なのかもしれない、と言われたときにおそらく、確実にそうだろうと思った。彼の生活は精彩を欠いていた。酒も、煙草も、ギャンブルもやらないが、テレビも、ゲームも、趣味も何もない人である。休日はいつも自室で布団にこもっている。母親は「疲れてるから」と言っていたが、幼心にそれが健康な状態であるとは思えなかった。ついにそのときが来て、その処理を担うのは、彼が大枚をはたいて送り出し、専門家として歩き出した私であることはもしかしたら喜劇なのかもしれなかった。私は努めて平静に、そうかもしれないと告げた。それから信頼できる医師を探し、休職し、処方された薬を必ず飲み、私でも書籍でもネットでも誰でもなくただ医師の指示を信ずるように彼に教えた。彼は大変弱っていたので、その通りにした。そうして半年ほどの休職を経て、閑職ながら職場に復帰していった。彼はその間に人が変わったようになり、明るく、陽気で、テンションが上がれば多弁になるといった私たちのような心理職の人間からすれば「お馴染みの」調子になり、その後、ひどく疲れるということを繰り返し、その振幅が少しずつ治っていく経過を辿った。弟が暇つぶしに良いから、とスマホの使い方をたくさん教えてやったことも、興味関心の幅が狭い彼にとっては画期的な出来事であったようである。
一方、私は母親が厳密に管理していた家計の傾きを察し、博士課程への進学を断念して就職をすることにした。急に舵取りをした割には成功し、無事働くことができたのは私の人生にあってなかなかの幸運であった。そもそも、博士号を取得したところで研究に対する情熱があったわけでもなし、これで良かったのだと思う。そのことを考えるとき、私は連想で母親のことを思い出す。大学に行きたかったが行けなかった彼女も、そう思うのか私に何度も尋ねた。「本当に良いの?お金なら心配しないで、大丈夫よ」。私は良いのだと思う。十分に何もかも施してもらったように思った。独り暮らしを始めてそう思えたので、この気持ちは本当だと思いたい。
こう淡々と書くと私は非情に冷めているようであるし、なんだかとても優等生のような気がする。実際私は非情に冷めていたし、ある意味で優等生のようではあったが、私も同性愛という特に思春期を生きる上での困った特徴を抱えていたのでそういった偽装された外枠が生まれたのだと思う。私は両親を確かに慕っているが、同時にひどく客観的な視点で2人を観察することができる。それは私が生きる上で必要な技能であった。
自分が同性愛の志向を持っているとはっきり認めたのは中学生頃の話である。女性は愛せないわけではないが、同性と比較するとやや不自然であるというのが一番しっくりくる説明だ。中学生の私は動揺して、毎日そのことで悩んでいた。こっそり図書館で同性愛について調べたりしても、特にこれといった確信は得られない。治療できることでもないようである。そう知ったとき、私は通常思い描かれる今後の幸福、即ち結婚や家庭を築くことをすっかり諦めるよう促されたように感じた。そうして、それらの絶望を含めて一切合切を誰にも悟られないようにすることを、理性的な私が命じたのだ。一番情緒が安定しなかったのは、中学2年生頃である。過呼吸で目が覚めたりもした。ただ私は、人間がそれほど悩み続けることができないと確信していた。私がストレスやら何やらで壊れるのが先か、私がその苦痛にすっかり慣れてしまうのが先かという問題である。結果として、私は完全に私の秘密を隠しおおせて毎日を過ごすことになんの抵抗も感じなくなった。その時々に応じて、自分の外枠を自在に変えることを覚えた。その様子を内から見守る私は冷静で、常に他者と自分の相互作用に目を光らせていた。
私の周囲には多くはないが親しい友人が必ずいたが、偽っているという意味で私は真に彼らと交流を持つことはないのだと感じていた。同時に、そういった秘密というものは誰にでも多少は付き物であって、すっかり互いに自分のことを話す必要もないとも思っていた。母親譲りの合理性で私の理性は常に行動規範の最上位に君臨し続けた。私は無難であることを最善として生きようとしたが、結局のところ父親譲りの負けず嫌いもあって、自分の秘匿した負い目を隠すように学業や社交、あるいは部活動など一般的な学生が取り組むことを心ならずも取り組むことになる。私は同性愛の志向を自身の欠点であると断じていた。それを補うかのようにそれらに打ち込み、不幸にもそれらはそこそこの、それでいて飛び抜けない程度の成功を収めていった。例えば、私は先例のように勉強がそこそこできた。勉強がそこそこできることは、私にとってこの世を生きやすくすることには役立ったが、そのくせ私はそういったことに全く価値を感じなかった。何故なら、それは私の偽装のために必要な手段であって「勉強ができるようになる」という目的にはなり得なかったからである。全ての事柄において私のスタンスは変わらなかった。何ができても、何ができなくても、外部の出来事は手段であって義務であった。できないことには早々に見切りをつけ、無難にできそうなことを念入りに、機械的に磨く。私の中に達成感といったものはほとんどなかったし、何かをしたいという気持ちもほとんど生じなかった。私の無気力さ、無関心さを敏感に察知した者は、私のことをほとんど憎むようにして嫌いになった。意欲もなく、価値も感じないことを淡々と続けることで経験値だけは伸び、それらに意欲があり、価値を感じている者の行く手を阻むことが多かったからだ。「お前と一緒にいると、コンプレックスを刺激される」と一人の友人は言った。私はその言葉が今まで生きてきて最もひどい罵倒であると思っている。私は事情を説明するわけにもいかないので、ごめんね、と謝ったように思う。私が悪いわけでも、八つ当たりしたくなった彼が悪いわけでもない。しかし、どちらかと言えば常に何かを欺いている私が悪いように思ったのだ。結局のところ、私が一番私を嫌いだった。
高校を卒業する頃には、私は自身の感情をほとんど思い通りに制御できるようになった。どんな時に気分が悪くなるのか、どんなことが許せないのか、どんなことが悲しいのか、そういった探求を特定の条件下でほとんど模索したと思った。そうして動揺が襲い掛かったとしても、それらを平然と押し殺せるようになった。大学に進学してからも、何人かの女性と交際した。愛というものについてあれこれ言うのは難しいが、私の心は少なからず彼女らに惹かれたし、セックスだってうまくできた。しかしながら、やっぱりそれは私の中の本当ではないのである。私は冷静に自分の能力や限界を見定める私に辟易した。空虚さや冷淡さが描かれるばかりであったからである。もっと賢いか、あるいは、もっと愚昧かのどちらかであればこんな訳のわからないことで悩んだり苦しんだりしないだろうと思っていた。私の偽装に反した「不適切感」はどんどん大きくなっていったが、それは誰にも公開されることなく、いつものように丁寧に蓋をして心の奥底にしまっていた。
私が大学院生になり、父親の鬱が一段落した頃、私はそういった努力を部分的にやめることにした。なんてことはない、疲れたのだ。むしろ良く保った方だと思う。他愛ない会話の中で、私は母親にさらりとカムアウトした。母親は動揺したし、自分の育て方が悪かったのだと必ず感じるだろうと思っていたが、その通りのことを言った。私は、唯一私自身の本当のために選んだものである心理学の知見から、養育や遺伝という事柄が科学的裏付けのないことであることを訥々と伝えた。それは誰のせいでもなく、何のせいでもないことなのだと伝えた。両親は早々と納得して(あるいは納得したふりをして)くれて、私の一世一代のカムアウトは比較的穏やかに、好意的に終わった。それが一番ありがたいことだった。私は家族の中では色んな偽装を外して、ゆったりとくつろぐようになった。私の振る舞いが変わるわけではなかったが、精神的な気の持ちようだけで随分と楽になるものであると、心理学徒でありながらその効果に驚いた。そうして、私が偽装のために費やし、獲得した色々な事柄は、古びているけれど使い慣れた道具のように、私の中に残った。その後、これらが思いがけない場面で私を度々救うようになった。
現状にすっかり満足したわけではないけれども、私というのはざっくりとこういう感じで形成されてきた。両親をはじめとし、人に恵まれた方だと思っている。オープンもクローゼットも両者それぞれの苦痛があることを、私は半端者だから完全ではないけれども多少理解できると思っている。そういった苦痛や悩みを抱えること、がっかりしたり、自分の将来に絶望すること、それらを自分に許すことがより良く生きる近道なのかもしれない。全く平気なふりをし続けるには、人生は長過ぎる。それらを克服できなくとも、悩んで、くよくよして当然であって、そういう権利が誰にでもある。私はそう思う。もし身の回りに、自分の悩みをすっかり打ち明けられる人がいるとしたら、それは間違いなく最良のことだ。もしそういう人が周りにいなくて、落ち込んだりしてまともに動けない日があっても、全然ダメじゃないと私は何度でも言いたい。それはどんなことであっても格闘の結果であって、果敢に挑んだことの証左だと思うからである。そういう人は、当然労われなければならない。
文章を書いていて、私が中学生の頃、まだネットや携帯電話が普及し始めたばかりで、自分と同じような悩みを抱えている人を知らなかった頃、ひどく孤独であるように感じていたことを思い出した。僭越ではあるが、もしこの文章を読んで誰かを何かしら元気付けることがあるとしたら、この上ない喜びである。