the 雑念

葉一用。とりあえず日記

3/6 【感想文】シェイプ・オブ・ウォーター

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※そういうブログじゃない。

シェイプ・オブ・ウォーターを観た
 私はギレルモ監督をものすごく贔屓にしているので、シェイプ・オブ・ウォーターも無論楽しかった。そうした気持ちをしたためる他ないと思い、このようにメモ帳を起動している次第である。良いと思ったものを良いと伝える練習としたい。まあでも一言で言うならば、シェイプ・オブ・ウォーターはいいぞ。

○観る前に知っておいた方が良いかもしれない情報
 ・「同監督制作の『パンズ・ラビリンス』と比べると『シェイプ・オブ・ウォーター』の鬱度は0.4パンズくらいだから指標としてほしい」という情報をTwitterで見かけたが大体そんな感じ。しかしグロテスクさや暴力的なシーンは引けを取らないので、ビジュアル的に痛い描写が苦手な人は注意。
 ・R15指定なので性描写も普通にある。誰かと一緒に観るなら気まずくならないよう気をつけたい。
 ・これに付随して、日本での上映ではボカシが入っている。
  ・1シーンだけ、2~3秒くらい。あってもなくても大して物語に影響しないが、気を削がれるかといえば削がれないこともない。

○ざっくりとした総評について
 ・モチーフが山のように多い:元ネタは知らなくとも楽しめるけれど、知ってるとそれはそれで目新しさが減じる。
 ・ストーリーはシンプル:良くも悪くも大筋で驚くような展開は無い。細かい演出や表現技法で楽しむ割合が大きい。
 ・キャラクターの作り込みは深い:キャラクターに関する何故については作中で答えが示唆されていることが多く、想像の余地も広い。
 ・暴力描写はやや過激:苦手な人は本当にダメとなりそうなくらいには暴力描写がある。人に痛みを想起させる表現は優れている。

※以下諸々のネタバレあり

○テーマについて(『美女と野獣』と『シェイプ・オブ・ウォーター』)
 あらかじめ告白しておくと、私は『美女と野獣』が好きだ。おそらくそれは、『美女と野獣』を信頼と忍耐、そして寛容がテーマの物語だと解釈しているからだと思う。ラブストーリーになるのは最後だけで、それまでの過程に心を動かされるから好きなのである。例えば、ベルが父親の病のために一時帰郷したいと申し出た時、野獣はそれを認める。野獣はベルが二度と戻らなくてもそれでも良いと思ったのかもしれないし、戻ってきてくれると信じたのかもしれない。それでいて、ベルは野獣の城に戻り、彼の信頼に応えようとする。人と関係を築こうとする時に、相手を信頼し、相手を許すという基本構造が端的に、ひょっとすると素朴に描かれていて好きなのだ。
 『シェイプ・オブ・ウォーター』は『美女と野獣』の構造を模してはいるが、似て非なる主張が隠されている。もちろん、オマージュや対立項となるものは存在していて、その違いを感じるのも面白い。監督自身がインタビューで述べているとおり、理想的で清廉な美女と唖者で中年期に差し掛かった主人公や、乱暴だが会話に遜色なく豊かな知性も有していて、最後には美男に戻ることのできる野獣と、獰猛で生き物を貪り食い、コミュニケーションは僅かにしかできない半魚人の対比は残酷で、この映画がいかに捻くれているかが分かる。ただし、ミュージカルのシーンは本当に美しく、想像の中で伸びやかに歌う主人公を見て心が動かされない人はこの映画は向いていない。
 タイトルにも示されているとおり、この物語のテーマは非定型の愛だ。それぞれの登場人物が、それぞれの信念の下に行動する様は理解に苦しむものもある。ただし、よく考えれば──各人が各々の考える愛に基づいて行動していると考えれば、それほど無理も生じない。話すことのできない主人公は、半魚人が「ありのままの自分を見てくれる」として助けようとする。それはきっと、主人公の寂しさを拭おうとするだけの行為で、一般的な愛の概念とは異なるのではないだろうか。しかし、彼女にとってはそれこそが愛で、のめり込むには十分なのである。それだけの孤独を、彼女の切迫した表情やもどかしい手話で表現することに成功している。他にも、黒人の同僚はどうして主人公を最後まで庇おうとするのか。隣人の画家がまずいキーライムのパイを大量に冷蔵庫に隠している理由は?悪役のストリックランドでさえも、妻の「キャデラックが欲しい」という言葉に従って車屋まで足を運んでいる。この映画のすごいところは、ごく自然に、さりげなく登場人物それぞれの信念を無理なく描ききっているところにある。一方、それぞれが愛を(もしくは信念を)構築する過程にそれほど重心を置いていないとも言え、ここで1960年代という(欧米圏にとってはテンプレートなイメージを援用できる)時代背景を設定することでキャラクターの飛躍や異常性が生じてしまう負担を減じている(が、日本人にはちょっと馴染みが薄いということも付記しておきたい)。

○シナリオについて(『パンズ・ラビリンス』と『シェイプ・オブ・ウォーター』)
 『パンズ・ラビリンス』は評価の分かれる作品であった。というのも、主人公のオフェリアが迷い込む幻想的な世界を彼女の空想と捉えるか、それとも実在のものと捉えるか観客に委ねられており、それが物語の結末の印象を大きく左右するからである。現実がファンタジーを、ファンタジーが現実を互いに侵襲していく有様は秀逸で、その分、物語の複雑さが増しているという感も否めない。他方、『シェイプ・オブ・ウォーター』はかなり分かりやすく配慮されており、想像を上回るような展開はそれほどなく、平たく言えば盛り上がりには欠ける(ご都合主義と言われればそれまでというところもある)。ただし、これは寓話・大人のための御伽噺であるとしていることから、観劇としての側面が強いことも挙げておきたい。おそらく観劇者に求められているのは感情移入より手前の理解程度なのだろう。『美女と野獣』のように王道路線で勝負する前提があったとするならば、物語の展開で悪目立ちすることを避けようとしたのかもしれない。いずれにせよ、『パンズ・ラビリンス』のような祈るような気持ちで映画を見ることはない(これが0.4パンズの由来であると確信している)。ただし、台詞にはかなり気を配って制作されたところがあり、これは数回見なければちゃんとしたことは言えないだろうとも思う(例えば、半魚人を『彼(he)』と表現したのはおそらく主人公だけだと思うとか)。配色についてもこだわりがあるようで(例えば、主人公の心情と服の色、もしくは緑と赤の対比)、注意力をきちんと割けば(多少は)奥行きのあるシナリオだと感じている。