the 雑念

葉一用。とりあえず日記

6/5 買い出しにて 同期氏「なんで1人1袋オレオ食べきる想定で買い物してんだよ」僕「えっ」同期氏「えっ」僕「1人1袋食べないの???」同期氏「お前もう買い物やめろ」

【関係性について】

毎日書きたい、ということだったがしばらくぶりになってしまった。研修の山場に加え、友人の入院などの色々が重なってしまったのであるが、まあなんとか無事である。疲れ果てていたからか、今日はほとんど布団から出ていない。独りきりの時間が尊いというのは本当だ。

人間は孤独に耐えられない、という言説がある。昔、世界史の先生からフリードリヒ2世の実験の話を聞いた。子供を育てる際に、養母や養父が一切話しかけないで育てると、子供は1人も育つことなく死んでしまった、というような話だ。無論、世界史上の話であり、信頼性や実験の確かさのようなものを今更吟味するようなことはしない。とにかくそういう逸話があるそうだ。これに関してコメントを加えるならば、コミュニケーションの剥奪が即ち物理的な死に繋がる、と結論付けるのは些か現代的な幻想に依拠しているような気がする、ということだろうか。

関係性、という事柄で私達は常に苛まれていると言っても過言ではないだろう。人間は孤独に耐えられないからかもしれない。関係妄想というのは比較的私のような仕事をしていると出会いがちな症例の一つである。他人から、あるいは見ず知らずの誰かから悪口や殺意を感じるというのは突飛な発想ではない。誰しも一度は『自分の体臭が周囲を不快にしているのではないか』とか『自分が離席している間に何か悪口を言われていたのではないか』とかそういう懸念を感じたことがあるのではないだろうか。少し大雑把な表現になるが、概ねそれの延長線上に関係妄想はあると言っても良いだろう。機序は幾つかあるが、それは私達の自我や自己同一性を守るという役割がある。では、誰とも接触しないで良い孤独な状態こそが、人間にとっての理想状態なのではないだろうか。しかしながらそれもまた正しくはないのである。孤独というのは人間の大切な機能をどこか必ず、時間をかけて蝕むものらしい。抽象的な表現になってしまうが、これも本当だ。ストレス研究からも、人間関係というものは適度に存在する方が良い、という結果が出ている。

ここまでうだうだと文章を書いたのも、前述の通り、友人の入院というとても困ったことがあったからだ。私は本人からのメールでそのことを知ったわけであるが、彼の文面は「入院しました 笑」の一文だけであった。私は数分逡巡をし、「笑ってる」とだけ返した。その後、そんなことを言わないようなキャラクターである彼が、「一人きりで暇だ」というようなことを述べたのである。これは残念ながら、心理学徒からすれば「寂しい」と解釈されても仕方のない文面である。

彼は学生時代から向こう見ずで、東で震災があれば数日後にはボランティアとして、部活や大学を放っぽり出して旅立ち、ゴールデンウィーク辺りに自分の履修なんかを思い出して、私にメールで自身の学内アカウントとパスワードを教え、「良い感じで履修登録してくれ」と頼むような奴だった(私はその時、彼が最も興味がないであろう朝一番の『哲学概論』を勝手に履修に組み込み、見事単位を落とさせている)。良く言えば頑張り屋で正義漢、悪く言えば近視眼的で意識が高い。周りにいれば鬱陶しいこと請け合いだが、彼は他人とコミュニケーションを取るのが上手だったので人間的な魅力を多少は兼ね備えていたように思う。

私は仕方がないので先週の土曜を利用して都内の病院へ見舞いに行った。彼は「お前は私服が2着しかないのか」と私に悪態をつきながら、美味そうに果物ゼリーを頬張っていた。正直なところ、私の仕事に関するスケジューリングは彼の見舞いのせいでかなり台無しになってしまったのだが、まあ、それもまた仕方のないことなのだろうと思った。1/3くらいは煩わしいと確信している。実際、先週は結局テストや実習やらでとんでもなく多忙を極めることになってしまった。それでもなお、関係性というのは断ち切り難いものである。やれやれという感じだ。彼は細菌かウイルスが由来の何かしらの病気であり、そろそろ退院できるらしい。おそらくストレスと過労から来る免疫機能の低下が原因だろう、と思ったが何も言うまい。病室で1人で居るより良かったのであれば、私も自分の可処分時間を割いた甲斐があった。そう互いに信じるところから、関係性という現代における神話の如き妄想が生まれるのかもしれないとも思う。