the 雑念

葉一用。とりあえず日記

5/21 「本物」の神はこの広い宇宙のどこかに隠れ 我々の苦しみを傍観している いつまでもそれを許しておけるほど 私は寛容な人間ではない


【近況報告について】

ほぼ1年ぶりの投稿であるが、その間に私は働いたり、出張したり、学会に参加したり、転勤のため引っ越しをしたりしてそれはもう大変な面倒を山ほど抱えて歩いてきたところである。ようやく年度初めから一通りの業務を覚え、余暇を捻出することができ始めた頃合いで、ああそうだ、ブログというものをやっていたと思い出し筆を取った次第だ(正確にはメモ帳を立ち上げた。私の作成する140字以上の文章のほとんどはメモ帳で作成されている)。
転勤先は片田舎であるが、前回勤務地よりは穏やかな毎日であり、物価も安くそれなりに満足している。不満という不満はないが、いずれにせよこの項で述べたいのは、引っ越しというものは何と面倒なことであるのか、という主張の一点である。これさえ伝われば文句はない。家探し(残念ながら社宅の抽選に漏れた)に始まり、契約、引っ越し業者との折衝と実行、住民票や免許証の登録変更、あとは会社に提出するべき諸々の書類と、銀行やカード会社あるいは宅配先などの住所変更そういった事柄を働きながら1か月くらいで片づけなくてはならないのであった。私は憚りなく年休を消化したので、周囲からは非難を浴びせかけたりしたが、開き直ってなんとか無事転居を済ませる事が出来た。こういったことを全て一人でやらなくてはならないのだから、とにかく生きることは難しい。
新しい出会いというのも、私のような繊細な(念のために断りを入れると、冗談である)人間にとってはストレスフルな事柄の一つである。私の相貌認知は境界水準であり(これは本当である)、人の名前を憶えることが難しい。面倒だ、と思う。私を殺すには面倒なことを2、3机の上に積み重ねるだけで良い。転校生が周囲からしばらく持て囃されるように、私もそういった他愛ないやりとりを消化しなければならなかった。それは本当にもう、拷問のような時間である。得てして人間は、それほど他人に興味が無いものなのだという確信がある。例に漏れず、転校生への質問はいつの間にか自分語りに替わっていく。私はか弱い心理学徒の端くれなので「へえ、そうなんですね」と適当な(それでいてこちらとしても消費カロリーの少ない)相槌を打つ技術に長けている(残念ながら文字でそれを表現することは難しい)。何とかやり過ごし、転校生タイムは終了したようだ。
こんな文体ではなかったか、と思いながら文章を作ったが(こんな文章ではなかったね)という感じである。

【仕事について】

相変わらず子どもまみれの仕事である。子どもはすげえいっぱいいるのである。少子化というのは、実は嘘なのではなかろうかというのが最近の私の考察だ。残念ながら、私と出会う子どもというのはそれなりに不幸なところがある子どもである。そういう仕事であるから仕方ない。おかげ様で給金もそれなりに貰えるようになってきた。使うところはあんまりない。贅沢と言えばAmazonプライムに加入したくらいの、ささやかなものである。
中卒で働いている子に会う。あるいは、高校を中退したばかりの子と会う。虐待を受けていた子に会う。知能が普通域よりも低い子に会う。薬を飲んでないとやってられない子に会う。嘘ばっかりつく子に会う。意気地がなくてどこにもいけない子に会う。ハンディキャップをひた隠しにしている子に会う。何故私と会うことになったのか分からない子に会う。私はいつも、彼らの資料をすっかり読んだ後、何も知らないふりをして彼らに会う。1つはそうすることでより現実味のある話を聴けるし、彼らの中での認識がどうなっているのか分かるからである。もう1つは、話をすることは自分を客体化することであって、過去を整理することが彼らの混乱を終息させるきっかけになるかもしれないと思っているからである(断っておくと、これはオリジナリティのある考え方ではない)。
良い聴き手であること、ということは臨床に携わる心理学徒の命題である。ロジャーズの3原則とか、そういうものをまず挙げる人が多いかもしれない。私も一応そう思う。それ以上に、彼らの話に動揺しないことが求められているように1年間くらい働いて思った。彼らは自分の過去を恐れているから、私が怖気づいてはそれ以上2人とも前に進めなくなってしまうのである。
鷹揚に。それでいて、何に対しても寛容であること。彼らの戦いに敬意を表し、今までされて来なかった、彼らの頑張りを労うことを忘れないこと。
私が心理学徒駆け出しの頃に読んだ本に書かれていた言葉である。その時は、尊い在り方だと思った。今もそう思う。そうあるために、私は動揺を殺す術を覚えてきた。胸に迫るような悲しい話をされても、聞いたこちらが何かに八つ当たりをしたくなるような胸の悪くなるような話をされても、平気だよという顔をして話を聴こうとしてきた。実際のところ、その試みはしばしば失敗した。その度に、私はほんの1、2時間話を聴いただけで彼の代わりになり替わったように感じる私の傲慢さに辟易した。
何もかもが一括で解決する方法があればいいのにと思う。彼らのあれこれを、簡単に解決できる何かがあるのではないかと思う。それは私が愚図だから、気が付かないだけなのではないかと思う。上司も先輩も、それよりもっと偉い人も、誰もそれを知らない。だからせめて、平気な顔をして話を聴けるようになりたいと思う。

【読書について】

転勤してから本を読む機会に恵まれている。既に昨年度を上回る読書量ではあるまいか、という感じだ。
本を読むのが昔から好きだ。中学生の頃から現在に至るまで、文庫本を持ち歩かないで生きたことはないというくらいである。実際、携帯ゲーム機よりも刺激的で、内容によっては18禁のものであっても1冊の本であればいついかなるときでもマナー違反にならないというのは不合理であるが私にとっては好都合だった。
私は高校生の時と大学生の時、それぞれ自分と同じくらいかそれ以上に本を読んでいる同級生に出会った。その際に、私は自分の読書したものについてほとんど執着心や愛着がないことに気が付いた。彼らは読んだものに甲乙を付ける。もしくは、自分はこの前こんなに素晴らしいものを読んだ、と話した。私はその話を聞くのが好きだった。他方、私はこういう話だった、と説明することはできてもそれが具体的にどこが良いとか悪いとか、そういった判断基準を持たなかった。作者が創作したものをあるままに受け取るものが読書だと思っていたからだ。
好悪はあったが良し悪しはない。そういう説明を友人にはしたかと思う。
それはどこまでいっても主観の世界であるから他者にわざわざ公表することでもないと思ったのだ。例えば私は志賀直哉の『暗夜行路』が好きである。私は大雑把に言って、何かを修復したり、台無しになったものをとりなすような話の筋が好きなのだと思う。例えば私は森鴎外の『舞姫』が嫌いである。あの主人公の煮え切らなさに加えて往生際の悪さが堪らなく嫌なのである。文学的に優れているとか、あるいは推理小説であればトリックや動機であるとか、ファンタジーであればオリジナリティや活劇の文字の起こし方とか、そういった評価基準を有していることは知っている。そのように論評を書くことも、拙いながらできると思う(大学生時代に雑誌に書評を投稿したら、何本か掲載されたことがある。私は少ない額の図書カードを貰い、あまりにも少額だったことに腹を立てて全て文房具にした)。しかし、結局のところ読書というものは個人の好き嫌いに還元されることを私は確信している。読書とはそもそも、とても孤独な作業に他ならないからだ。
あるいは、君は君の読書体験を誰にも汚されたくないのかもしれないね、と大学時代の友人は言った。私のことを多分に理解してくれる友人である(ちなみに変わり者である。部室にファービー人形を磔にして三日三晩鳴かせ続けたりしていた)。私は彼にそう言われて、そうかもしれないと思った。
そんなことを思いながら私は今日も積読を消化するのである。シリーズ物に着手する時間ができたので、最近はスティーブン・キングの『ダーク・タワー』を読んでいる。古本で文庫本を集めるのが趣味なので、新潮文庫から出ているものである。まだ読み始めたばかりで、3巻目に移ろうかといったところだ。個人的に(読書はいつだって個人的な物だと何度でも言いたい)、新潮文庫の翻訳は何故だか読みづらいことが多く、天下のスティーブン・キングであってもそのようである(『幸運の25セント硬貨』もそんな感じだった)。断っておくと、ハイ・ファンタジーである部分によるところも大きいと思うし、どうやら一番読むのに苦労した1巻目はかなり昔に書かれたもののようである。スティーブン・キングと言えばホラーでも何でも、洒落た会話が出てくる(あるいはストレートな駄洒落もある)から、日本語での表現は難しいし、じゃあ原著で読みなさい、と強か頬を張られても仕方の無い注文である。巻を追うごとにそこそこ読みやすくなるだろうと信じたい。